朝日新聞と読売新聞の巨人軍をめぐる確執に、毎日新聞が“参戦”していることをご存じだろうか。
毎日新聞は、讀賣新聞東京本社と読売巨人軍に、「今回の対応は表現の自由を自ら狭めかねないが、これをどう思うか」「なぜ朝日新聞の『報道と人権委員会』に申し立てたのか」などの質問書を送付した。

読売側が、新聞紙上で発表した回答は毎日へのものでもあったのだ。
昨日、毎日新聞は、1ページを割いて総括をした。

讀賣新聞グループは清武英利元巨人GMの解任後、氏が讀賣新聞社時代に執筆、共同執筆した書籍の出版差し止めの仮処分を裁判所に申請した。また、清武氏が巨人軍の内部資料を持ち出したとして、『巨魁』を出版した出版社ワックに対して、球団内部資料の移転禁止の仮処分も申請した。さらに、原辰徳巨人監督をめぐる報道に関して、『週刊文春』の広告掲載を差し止める仮処分も申請した。

仮処分とは、金銭債権以外の「権利」を暫定的に保全するように裁判所に申請するものだ。いわば、裁判をする前に、事態をこれ以上進行させないためにストップをかけるようなものだ。裁判所の判断は、清武氏が在社中に書いた本の出版差し止め」と「球団内部資料の移転禁止」は「認める」。文藝春秋への仮申請は、すでに広告が配信された後だったので読売側が仮処分申請を取り下げて、本訴に切り替えた。



毎日新聞は、言論にかかわる事件に対して、裁判に訴えた読売新聞の姿勢に対して、表現の自由を自ら狭めかねない、と言っているのだ。ジャーナリズムは、国家権力の外側に立つことで、健全な機能を果たすことが出来る。内部告発者が出たからと言って、裁判所=国家権力に泣きつくような姿勢で、国家や社会にモノが言えるのか、と言っているわけだ。

そもそも内部告発とは、組織の不正を内部から糾弾するものだ。その会社が社会的な影響力、公的性格を帯びている限り、その不正を出版という形で明らかにすることは、出版社の使命である。讀賣新聞だって、内部告発者から情報を提供されてスクープ記事を書いたことは枚挙にいとまがないほどあったはずだ。

新聞社自ら内部告発者を裁判所に訴えるというのは、今後の取材、報道活動に自ら足枷をはめるようなものだ、ということだ。

讀賣新聞は、今後、内部告発者の提供した情報を記事にすることが出来るのか、ということだ。

この問題は当ブログでも何度か取り上げた。なぜ、自ら首を絞めるようなことをするのか。

昨日の毎日新聞に、専修大学の山田健太教授のコメントとして、非常にわかりやすい説明がされてあった。

讀賣新聞は、今回仮処分をしたような出版社は、悪い言論機関だと決めつけているのだ。讀賣新聞はこれらの出版社を「暴露本出版社」と決めつけている。要するに自分たちとは違い、まともな言論機関ではないから、訴えても良いと考えているようなのだ。

渡邉恒雄氏は球界再編事件の時に「たかが選手が」と言って世の非難を受けたが、同様の感覚だろう。我々讀賣新聞とは格が違う「たかが出版社」の分際で、讀賣の非を鳴らすとはけしからんというところか。これは、巨人軍だけが特別、という意識とも通底しているように思う。

渡邉恒雄氏の感覚では、(入社試験に落ちたともうわさされる)朝日新聞は、敵ながらまともな言論機関であり、だから朝日新聞だけは立場を尊重して『報道と人権委員会』に申し立てたのではないだろうか。

私は今、渡邊恒雄氏の『わが人生記』(中公新書クラレ)を読んでいる。ブックオフの100円本のコーナーに並んでいたのだ。最初450円の値札が貼ってあり、その上から250円の値札が貼られ、さらに100円になっていた。よほど読み手がないのかと思った。6年ほど前に書かれた氏の半生記である。東京高校から東大に入り、哲学を専攻。有名な哲学者の教えを受け、少壮ながら知識人として活躍した若き日のことが書かれているが、有名な哲学者に認められたり、出版活動をしたりしたことが、自慢げに書かれているのだ。また、本が良く売れたことも自慢している。知的な活動を書きながら、ちっとも知的な感じがしない。非常に俗な感じがするのだ。



渡邉恒雄氏は徹底的に「俗物」なのだと思う。いつも対象が自分よりも「上」なのか、「下」なのかが気になって仕方がない。そんな俗物根性が、出版社をめぐる一連の訴訟沙汰、そして巨人軍の不祥事をめぐる対応にも表れている。

要するにエリートの巨人だから許されることがある、他の球団とは違うのだ、という意識があるのだ。新人獲得契約金のルール違反の問題も、エリートだから許されると本気で思っているのだ。

こういう鼻持ちならない姿勢の人、企業は本当のエリートでないことは自明だろう。

毎日新聞の報道は、渡邊恒雄氏、そして今の讀賣新聞の本質を知る上で大変役に立った。

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