波多野勝編 江夏豊自伝『左腕の誇り』



この本も刊行されてから10年経っている。今さらという気がするかもしれないが、阪神タイガースの歴史に新たな事実が加えられ、多くの野球人の評価が変わってしまったことを考えると、どうしても押さえておきたい。大変な本なのだ。

いわゆる聞き書きによる自伝だが、書き手はプロのライターではなく、野球史家としても著名な慶應大学池井優教授の門弟で、外交史を専攻する大学教授である。学者らしい緻密な取材で、江夏豊の本音、人間性が引き出されていく。

江夏は、貧しく複雑な家庭に生まれるも、周囲の人に恵まれて野球をはじめ、成功を収めていく。しかし彼はそうした苦労やお涙ちょうだいの人情話が身につかない。苦労人にはなれない。人並み外れた身体能力に恵まれた彼は、誰はばかることもなく自分の感性、価値観で世渡りをしていくのだ。

江夏豊のような性格を「無意識過剰」というのだろう。小林信彦が、小林旭を表した言葉だが、自らが光源であることに微塵の疑いも抱かず、感じたままを口にし、思うままにふるまう。周囲には迷惑この上ないが、欠点をはるかに上回る才能、オーラで人々を魅了していく。

この本は、編者による伝記的な解説と、江夏の独白を交互に綴る形式で構成されている。その独白部分が異様に迫力がある。まるで、喫茶店で向かいに座り細い煙草をくゆらせた江夏からじかに話を聞いているようで、彼の独特の感性や好悪の情がそのまま提示されている。

才能にあふれた江夏はプロ入り直後から先輩野球人に目をかけられ、引き立てられてきた。江夏はこうした恩人に感謝の念を表している。しかし、そうした先輩であっても、ひとたび嫌な部分、人間として卑小な部分を目にすると、彼はそれを許しておくことができない。特に金田正泰、吉田義男に対しては辛らつ極まりない。この本が出た時点で金田はすでに物故していたが、吉田との関係は修復不可能だろう。また、江夏を拾ってくれた野村克也や広岡達朗に対しても江夏は容赦ない批判を浴びせている。子供のように純真な江夏は、矛盾、不正、怯懦を許しておくことができないのだ。一方で身勝手な振る舞いで人に迷惑をかけながら、一方で他人の小さな瑕疵でさえ許すことができない。この性格が、江夏をして波乱万丈な人生を歩ましめているのだろう。

この本で興味深いのは、村山実との交流だろう。ライバル関係にあった二人は、互いにけん制し合いながらも、二人にしか分からないレベルで心を通い合わせている。ともに神経質で、独占欲が強いが、正直でもある。互いに認め合った関係だったのだ。

最も深刻な独白は、昭和48年、あと1勝で優勝という阪神首脳陣が、江夏に「勝つな」と指令を下したくだりだ。正直の上に「馬鹿」がつきそうな江夏だけに、この話は信憑性が高い。阪神球団、プロ野球の不健康さを垣間見る思いだ。

江夏の独白は日本ハムに移籍して2度目のMVPをとったあたりで終わっている。あとは編者の事実の記載が淡々と続く。その尻切れトンボ具合も奔放な江夏らしい。みじめな部分はもう語りたくなかったのだろう。あとがきは、覚せい剤所持事件の顛末を経て、自由人となった江夏の近況を紹介して終わっている。

この本はwikipediaをはじめとするその後の江夏豊紹介の底本となっている。耳新しい部分はそれほど多くないかもしれないが、昭和の野球がどんなものだったか、そして江夏豊がどんな野球人だったかを知る上で欠かせない本である。






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