タイトルとは裏腹な内容になるが、宇佐美氏が記事にした「真剣勝負」の首位打者争いを記しておきたい。実はこの記事にも「作為」が紛れ込んでいる。微妙な内容なのだ。宇佐美氏の「許容範囲」が見えてくる。
1)1946年、グレートリング田川豊と阪神金田正泰の首位打者争い
4試合を残し田川.347、金田.337。しかし金田は4打数3安打、4打数2安打、5打数3安打と猛追し.346。田川は4打数0安打で.342と逆転。金田は最終戦の中部日本戦で、四球の後、苦手の左松尾幸雄からバント安打で.3470に。ここで金田は引っ込んだ。田川は翌日の最終戦で4打数3安打すれば.3471で逆転の可能性はあったが、最初の打席で安打したものの、3打席を凡退。新人田川の首位打者はならず、金田に栄冠は輝いた。



2)1948年、巨人青田昇、南海山本一人、大映小鶴誠の首位打者争い
3人とも殿堂入り。小鶴は.3053で全日程終了、山本は.3038、青田は.3026。
巨人南海の直接対戦での最終戦。第一打席青田は二飛(.3033)、山本は二塁打(.3042)で逆転2位に。2打席目は青田安打(.3045)、山本中飛(.3035)で再逆転、第三打席青田は意表を突くセーフティバントをライバル山本の前に転がして内野安打(.3057)、山本は右中間へ飛球を挙げるが何と青田がこれを落球、記録は安打。しかし打率(.3051)は届かない。4打席目で山本は敬遠気味に歩かされ、青田はベンチに退いた。

3)1962年、近鉄ブルームと大毎山内一弘の首位打者争い
オールスター戦終了時点でブルームは.311で8位。1位の山内は.361と大差がついていた。しかし後半戦、ブルームは猛追。40日後の8月23日には山内.355、ブルーム.350に。翌日の南海戦で4打数3安打し、ついに逆転。最終的には.374とバースに抜かれるまでの外国人最高打率を記録した。山内は2位をキープしたものの打率を落とし、.334だった。当初5分のリードをしていた打者が最終的には4分の大差をつけられた。

4)1965年、中日江藤真一と巨人王貞治の首位打者争い
オールスター後二人の打者ははげしいデッドヒート。10月15日現在で王.3291、江藤.3284。王は首位打者を取れば戦後初の三冠王になる(同年、パの野村克也も獲得を目指していた)。しかし残り試合で江藤は23打数11安打と打ちまくった。江藤の試合はすべてデーゲーム。着々と打率を上げる江藤の情報は王の耳にも当然入る。王はプレッシャーで硬くなり、18打数2安打しか打てず、江藤に完敗。三冠王はお預けとなった。



5)1976年、中日谷沢健一と巨人張本勲の首位打者争い
10月7日の時点で、残り10試合の谷沢.339で3位、張本は.351で1位。しかし谷沢は残り2試合を残して.352に。この間張本も打率を挙げて.3547にして、シーズンを終えていた。谷沢は次の広島戦で4打数3安打として打率を.3548とし、1毛差で張本を逆転。残り1試合を欠場し、張本のセパ両リーグ首位打者を阻止した。

※広尾の意見 
お読みになって違和感をお持ちになった人も多いと思う。
首位打者争いの名勝負として紹介されているエピソードの中にも打率をキープするために休んだり、ベンチに下がったり、敬遠を与えたりするシーンが出てくる。それはだめなんじゃないのか?とも思ってしまう。
宇佐美さんはそうした作為を何が何でもNO!と言っているのではなく、ぎりぎりまで勝負をしたうえで使えと言っている。いわば「量的」な問題だといっているのだ。
ただ、これでは線引きが難しい。
単純な意見かも知れないが、コミッショナー事務局の通達として、

1) 規定打席に達して打率1位にいる選手は、故障、病気以外の理由で2試合以上連続して欠場してはならない。また出場試合では必ず3打席以上に立たなければならない。
2) 1)の状況に達して、打率1位の打者のいるチームと、その打率を逆転可能な打者がいるチームが対戦する試合では、勝敗の絡まない状況では(定義が必要だろうが)該当打者に対して故意四球を与えてはならない。
3) 同一チームに首位打者になる可能性が残された選手が複数いる場合では、打率が並んだ時点で両選手をベンチに下げてはならない。

を出せば、作為の首位打者争いはかなり緩和されるのではないか。もちろん虚偽の故障報告(仮病)や、「偽装敬遠四球」が発生する可能性は残るが、少なくとも「作為はいけない」ということが徹底されるのではないだろうか。

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