元旦は昼夜とお酒を飲みましたが、覚めるたびに「お年賀」投稿の漏れを指摘するコメントが「おめでとうございます」とともに増えていて、頭を抱えました。
いいわけですが、目視でデータを拾う企画は、とにかく穴が多い。こんな鬼のように野球に詳しく、こだわっている人たちを相手に、なんてサイトをやっているんだ、とつくづく後悔しました。

でも懲りることなく今年もこんな感じでやりますので、改めてお付き合いのほどを。
さて、年男のNPB選手について総まくり。調べてみると、NPBは辰年生まれの選手で持っているといってもよいくらい、名選手、大選手が居並んでいる。殿堂入り選手が9人もいるのだ。

ちなみに、MLBで最古の年男は1832年生まれで1874年に1試合だけMLBの試合に出たペンシルベニア州のハノーバー出身のリュー・カール。1885年に死亡しているが生きていれば180歳である。

まずはNPB最古の辰男、3人。生きていれば108歳。

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巨人の初代4番打者の永沢富士雄。函館オーシャンの名選手で、プロ野球には31歳で身を投じた。
選手としてはほとんど活躍していないが、横沢三郎は監督、パリーグ審判部長としての貢献が認められ88年に殿堂入りしている。

一回り下の1916年はすごい顔ぶれだ。1試合以上出場した選手は51人いる。実働5年以上の選手のリスト。生きていれば96歳。

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呉昌征、スタルヒン、藤村富美男、NPB第一号の本塁打を打った藤井勇、大沢親分の兄にして名一塁手の大沢伸夫、阪神のエース御園生、南海のドン山本(鶴岡)一人、中日の名捕手三浦敏一はすべて同い年だったのだ。田部輝男は、巨人最初の背番号3、田部武雄のいとこにあたる。

呉も含め、この顔ぶれは中等野球選手権でしのぎを削ったメンバーだ。甲子園の盛り上がりは今の比ではなかったことだろう。

戦火に散った選手も多い。戦前のNPBを支え、戦後の復興の礎となった選手たちだ。もう生きている選手はほとんどいない(大友一明が存命中?)。

以下、2に続く。

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syokuyakyu様より

折角の機会ですので1904年生まれの三人について補足させていただきます。

永沢富士雄がプロ入りしたきっかけは昭和9年の全日本に選ばれたからですが、函館オーシャンの先輩・久慈次郎が主将兼沢村栄治の教育係として全日本入りした際に一緒に誘われていなければ30歳でプロの道に進むことは無かったでしょう。一塁守備の名手ですが、吉原正喜が怪我で欠場した時はキャッチャーもやっています。

高田勝生は明石中学の監督を長く務めた関西球界の重鎮。中京商業との延長25回の試合の監督で、楠本保や中田武雄を育てています。
ライオンの監督に就任しましたが選手登録もしていたようで、怪我人続出となった昭和14年8月7日のジャイアンツ戦で2回からファーストに入り4回にセンターにゴロで抜けるヒットを放ち、これが選手としての唯一の打席となったため生涯打率10割を記録しています。
竹中半平氏著「背番号への愛着」に一行コメントとして「 高田は凡庸の印象しかないが」とだけ書かれてしまったため「凡庸」の部分だけが誤って伝わってしまっています。

横沢三郎はセネタース監督時に野口明を明治大学から引き抜いたため駿台倶楽部を除名され、セネタースでも内紛から苅田久徳と監督を交代して審判に転じ、戦後の二代目セネタースを立ち上げましたが後から乗り込んできた東急の五島慶太に反発して再度審判に転じて野球殿堂入りしました。権力に迎合しない硬骨漢だったようです。