昨日は良い試合だった。中田翔が見せ場を作ってくれたおかげで、負けた日本ハムにもそれなりの納得性があった。しかし、11/2の「誤審」は遺恨として残ることだろう。
当夜は会合があったため、私はこの試合を見ていなかったのだが、確かに「誤審」である。
第5戦の4回表、5-2とリードする巨人は、無死一塁で加藤健が打席に立った。バントの構えをした加藤に対し、日本ハムの多田野数人はインコース高めに投げた。加藤はバントの構えのままのけぞって転倒。“頭部死球”をアピールした。柳田浩一球審はこのアピールを認めて死球とし、さらに多田野を「危険球を投げた」と判断して退場処分とした。
日本ハムの栗山英樹監督が飛び出して抗議。栗山は死球の有無ではなく、バントの構えをした加藤が「球を避ける意思がなかった」とのアピールをした。しかし、受け入れられず、多田野は退場、緊急登板した森内壽春が次打者の松本哲也にタイムリーを打たれて6点目が入った。
VTRを見れば、加藤は体にもバットにも当たっていなかった。単なるボールだった。そもそもボールは加藤の頭部よりもかなり遠かった。加藤は虚偽のアピールをした。そして主審の柳田は、そのアピールに眩惑された。柳田球審は、一度はファウルの判定をしようとしたという。つまり、いずれにせよこのプレーをしっかり見ていなかったのだ。
しかしながら、現行の野球のルールでは、選手にも、審判にも落ち度はない。選手のアピールに「嘘をついてはいけない」というルールはない。また、野球というスポーツは本塁打以外のプレーでは、VTRを判断材料にはしない。審判のジャッジこそが「事実」であり、「真実」なのだ。
そして、プレーはもう済んでしまい、その試合も成立してしまった。選手も、チームも、そしてファンも、そのことを受け入れるほかに選択肢はない。
もちろん、球団側がNPBの審判部に対して抗議を申し入れることはできる。明らかな「誤審」に対しては、苦情をいうべきだろう。しかし、それは「今後の対応」を要望することであって、試合結果を蒸し返すことではない。また、審判部もこうした批判は真摯に受け止めるべきだが、それ以上のことをすべきではない。
しかるに、一昨日以来、巨人軍の事務所などには、抗議の電話やメールが殺到しているという。また加藤に対しては「札幌の街を歩くときには気をつけろ」などというヤジが飛んだという。
これは、全くお門違いというほかはない。巨人の原監督や加藤健がとった行動には、落ち度はない。彼らは勝利のためにできることをしただけなのだ。「虚偽のアピール」は、確かに後味がよくないが、それもプレーのうちである。
NPBオフィスにも抗議の電話があったようだ。これは心情としてはわからないでもないが、基本的には「後の祭り」である。言っても詮無いことなのだ。
またぞろ「NPBの審判は巨人びいき」という話が持ち上がるだろう。一般の人だけでなく、マスコミの中にもそういうことを言う人がいるが、全く根拠のない妄説だ。一瞬一瞬で判断を求められる審判が、特定のチームに有利なジャッジをし続けるのは不可能に近い。もしそういう判断をしたとすれば、もっとあからさまなことになるはずだ。
ハンドボールやサッカーには「中東の笛」というものがある。アラブ圏の審判は、自分たちの有利になるようなジャッジをする。これは確信犯であり、スポーツの精神を理解しない産油国の権力者たちが、敢えてやらせている行為だ。しかし野球とハンドボール、サッカーの違いこそあれ、特定のチームに有利な判断をしようとすれば、そこまではっきりしなければ、効果がないということだ。
「NPBの審判は巨人びいき」説は、NPBが営々と築き上げてきた歴史を貶める妄言だ。そして審判の権威を貶めることでもある。
巨人という球団は、興行面や選手獲得の面で、専横的なことを繰り返してきた。企業としてのマナーは最悪だとは思うし、倫理面でも問題があると思うが、こと試合に関してまで、横車を押すことはありえない。もし、そういうことをしていたとすれば、プロ野球はとっくに衰退していたはずだ。
また、今の審判が取り立てて劣化しているとも思わない。VTRなどの進化によって、ジャッジに対してより厳しい目が注がれているのは事実だが、彼らも努力研鑽をつんでいる。それであってもこうした「誤審」は起こりうる。それくらい難しい仕事だということだ。
過去にも大試合で「世紀の誤審」とされるジャッジはいくつもあった。「円城寺、あれがボールか 秋の空」と詠まれた1961年の南海巨人の日本シリーズ第4戦、「大杉勝男大飛球」をめぐる阪急上田利治監督の80分に及ぶ抗議があった1978年ヤクルトとの日本シリーズ第7戦。しかし、そのジャッジは覆らなかった。
それで良かったのだ。もし選手や監督の抗議で試合が覆るような前例を残せば、NPBの野球の本質さえもが変わってしまう。
あえて言うが、「誤審」も「野球の内」である。明らかなミスジャッジも含めて、審判が試合を裁量し、進行する。これが野球というスポーツの基本ルールなのだ。
そのことを尊重し、結果を受け入れるのは、すべての野球ファンの基本姿勢だと思うのだがいかがか。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください! ↓
日本ハムの栗山英樹監督が飛び出して抗議。栗山は死球の有無ではなく、バントの構えをした加藤が「球を避ける意思がなかった」とのアピールをした。しかし、受け入れられず、多田野は退場、緊急登板した森内壽春が次打者の松本哲也にタイムリーを打たれて6点目が入った。
VTRを見れば、加藤は体にもバットにも当たっていなかった。単なるボールだった。そもそもボールは加藤の頭部よりもかなり遠かった。加藤は虚偽のアピールをした。そして主審の柳田は、そのアピールに眩惑された。柳田球審は、一度はファウルの判定をしようとしたという。つまり、いずれにせよこのプレーをしっかり見ていなかったのだ。
しかしながら、現行の野球のルールでは、選手にも、審判にも落ち度はない。選手のアピールに「嘘をついてはいけない」というルールはない。また、野球というスポーツは本塁打以外のプレーでは、VTRを判断材料にはしない。審判のジャッジこそが「事実」であり、「真実」なのだ。
そして、プレーはもう済んでしまい、その試合も成立してしまった。選手も、チームも、そしてファンも、そのことを受け入れるほかに選択肢はない。
もちろん、球団側がNPBの審判部に対して抗議を申し入れることはできる。明らかな「誤審」に対しては、苦情をいうべきだろう。しかし、それは「今後の対応」を要望することであって、試合結果を蒸し返すことではない。また、審判部もこうした批判は真摯に受け止めるべきだが、それ以上のことをすべきではない。
しかるに、一昨日以来、巨人軍の事務所などには、抗議の電話やメールが殺到しているという。また加藤に対しては「札幌の街を歩くときには気をつけろ」などというヤジが飛んだという。
これは、全くお門違いというほかはない。巨人の原監督や加藤健がとった行動には、落ち度はない。彼らは勝利のためにできることをしただけなのだ。「虚偽のアピール」は、確かに後味がよくないが、それもプレーのうちである。
NPBオフィスにも抗議の電話があったようだ。これは心情としてはわからないでもないが、基本的には「後の祭り」である。言っても詮無いことなのだ。
またぞろ「NPBの審判は巨人びいき」という話が持ち上がるだろう。一般の人だけでなく、マスコミの中にもそういうことを言う人がいるが、全く根拠のない妄説だ。一瞬一瞬で判断を求められる審判が、特定のチームに有利なジャッジをし続けるのは不可能に近い。もしそういう判断をしたとすれば、もっとあからさまなことになるはずだ。
ハンドボールやサッカーには「中東の笛」というものがある。アラブ圏の審判は、自分たちの有利になるようなジャッジをする。これは確信犯であり、スポーツの精神を理解しない産油国の権力者たちが、敢えてやらせている行為だ。しかし野球とハンドボール、サッカーの違いこそあれ、特定のチームに有利な判断をしようとすれば、そこまではっきりしなければ、効果がないということだ。
「NPBの審判は巨人びいき」説は、NPBが営々と築き上げてきた歴史を貶める妄言だ。そして審判の権威を貶めることでもある。
巨人という球団は、興行面や選手獲得の面で、専横的なことを繰り返してきた。企業としてのマナーは最悪だとは思うし、倫理面でも問題があると思うが、こと試合に関してまで、横車を押すことはありえない。もし、そういうことをしていたとすれば、プロ野球はとっくに衰退していたはずだ。
また、今の審判が取り立てて劣化しているとも思わない。VTRなどの進化によって、ジャッジに対してより厳しい目が注がれているのは事実だが、彼らも努力研鑽をつんでいる。それであってもこうした「誤審」は起こりうる。それくらい難しい仕事だということだ。
過去にも大試合で「世紀の誤審」とされるジャッジはいくつもあった。「円城寺、あれがボールか 秋の空」と詠まれた1961年の南海巨人の日本シリーズ第4戦、「大杉勝男大飛球」をめぐる阪急上田利治監督の80分に及ぶ抗議があった1978年ヤクルトとの日本シリーズ第7戦。しかし、そのジャッジは覆らなかった。
それで良かったのだ。もし選手や監督の抗議で試合が覆るような前例を残せば、NPBの野球の本質さえもが変わってしまう。
あえて言うが、「誤審」も「野球の内」である。明らかなミスジャッジも含めて、審判が試合を裁量し、進行する。これが野球というスポーツの基本ルールなのだ。
そのことを尊重し、結果を受け入れるのは、すべての野球ファンの基本姿勢だと思うのだがいかがか。
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例えばMLBでは、ストライク/ボールの判定についての正誤判定を導入しています。NPBではそこまでは難しいのかもしれませんが、そうした努力ができる可能性を「伝統」や「権威」の一言で封じ込めるのはあまりにも短絡的ではないかと思うのですが。
過ぎた誤審は受け入れる、が、減らす努力や無くす努力は論議されるべきでしょう。そしてNPBや審判部は、ファンに目に見える形でそれを示すことが肝要だと思います。