野球は、「プレイボール」と審判が宣言して試合が始まり、「ゲーム」と宣言して試合が終わる。審判は、すべてのプレーに対して判定を下す。野球は審判が果たす役割がきわめて大きく、重要度が高いスポーツだ。
野球の審判は、プレーの判定をするだけが仕事ではない。試合進行に関わるすべての権限を有している。選手交代、守備位置の変更、雨天やスタンドから物が投げ入れられたときの試合の中断、試合進行を早くするための選手やチームへの督促、そして試合使用球を投手に与えるのも審判の役割。審判は試合進行を妨げたり、審判に対して暴言を吐くような選手、監督は退場にすることができる。まさに、審判は試合の主宰者だ。審判の権限は極めて強い。

なぜ、そうなのか?

判定すべき事柄がきわめて多く、しかも微妙だからだ。一球一球の投球のストライク、ボールの判定から、ファウル・フェアの判定、ノーバウンド・ワンバウンドの判定、アウト・セーフの判定。審判は、これを瞬時で判定して白黒をつけていかなければならない。
いずれともつき難い微妙な状況は、無数に発生する。一つ一つの状況で、有利不利がわかれてくる。両軍は文句をつけようと思えば、いくらでもつけることができる。しかし、それでは試合進行ができない。だから、審判の判定は絶対的なものになっているのだ。両軍は、審判の判定を絶対的なものとする合意のもとに、試合を行っている。

我々は、ストライクは、打者が投球を空振りするか、2ストライクまでにファウルをするか、所定のゾーン内のボールを見逃すかしたときに与えられると思っているが、厳密にはそうではない。試合中に、審判が「ストライク」と宣言したボールだ(ファウルや空振りの時には、宣言は省略されているが)。
本塁打も、我々は柵越えをすればホームランだと思うが、本当は審判が「本塁打」と判定して、そのジェスチャーをしたものだけが本塁打なのだ。

審判に対して絶対的な権限を与えるのは、野球というゲームを円滑に進めるうえで不可欠だ。野球という競技の大前提と言っても良い。

残念ながら、日本ではこの大前提が軽視されることが多い。かつては審判の判定に対する暴行事件がいくつも起こった。中には傷害罪に問われるほどの暴行を与えたケースもある。日本では、審判は選手や監督に尊重されない。審判の地位が低い。
なぜそうかというと、選手上がりの審判が多く、審判が選手や監督など野球人の序列に組み込まれているからだ。
NPBでは野球選手上がりの評論家たちは、審判に敬語を使わない。NPBで大いなる実績を残した彼らは、審判を下に見ている。NPBでは審判は「裏方」であり、スタッフなのだ。

MLBの審判の多くは、野球選手とは無縁に採用される。野球人の序列とは別である。独立性が保たれている。そしてその権威をすべての野球人は尊重している。1997年、マイケル・デュミロというMLBの審判が人事交流でNPBのセリーグで審判をしたことがあったが、当時の中日の選手に暴行を受けて2か月で帰ったことがあった。NPBとMLBの審判の地位の「段差」を示す例である。

長々と審判について述べてきたのは、日本シリーズの例の「誤審」が、野球のルール上は何ら問題がないジャッジだったことを再確認したかったからだ。
柳田球審は、日本ハム多田野数人が投げた球が、加藤進の頭部付近に接触したとして「死球」と裁定し、多田野には危険球を投じたとして退場を命じた。野球的な事実はこれだ。
映像を見れば、多田野の投球は加藤に当たっていなかったが、現行の野球ルールでは審判の判断が最終的な結論なのだ。野球的には「映像が間違っている」のだ。

この前提を崩すような議論は、「野球」という競技そのものを脅かしかねない。プレーのジャッジが、審判の最終判断ではなく、VTRなどの機械に委ねるとすれば、審判は試合の主宰者としての権威を失うことになる。それでも良いのか。ということだ。野球という微妙なプレーの積み重なりで成り立っているゲームを、人間以外のものに判断させることが可能なのかどうか。

たった一つのミスジャッジをとらえて、審判の適格性の議論をするのは、不条理だと思う。彼らは毎試合300球近い投球の判断をし、54のアウト、20前後のセーフの判定をしている。そして試合を円滑に進行している。しかし、彼らを正当に評価する人はほとんどいない。



「審判の誤審が多い、しっかり見てほしい」というクレームは、近年、球団や選手会から審判部に頻繁に寄せられている。審判部もこうした意見を受けて勉強会や研修を行っている。

しかし、誤審についてのクレームが増えたのは、恐らくは「審判の劣化」が原因ではない。すべてのNPBの試合が試合開始から終了まで、VTRで録画され、プレーの一つ一つまで検証することができるようになって、物理的な「誤審」が発見されやすくなったことが大きいと思う。「誤審」が増えたように思うのは、その「証拠」が多数上がるようになったからだ。

昔に比べて、審判の能力が劣化したと断じる根拠はない。恐らくは「進化」している。
審判の研修では、VTRを導入してプレーの動きを解析するようになっている。また、すべてのプレーが映像化されることに対応して、審判のアクションもより明確になってきている。併殺のように、かつては一連の流れの中でジャッジしてきたプレーも、ポイントを押さえるようになってきた。
それでも「誤審」は起こる。目の前で起こったプレーを瞬時に判断するのは、それくらい難しいのだ。そのことを我々は理解しなければならない。
ミスジャッジはあってはならないとは思うが、必ず発生する。絶対に無くならない。そのことも理解すべきだと思う。

審判部の体制や、その人材登用に問題なしとするわけではない。かつての年功序列型はなくなったものの、審判の起用には問題がある。重要な試合の審判は、特定の人に偏っている感もある。かつてはMLBよりも優秀だと言われた技術面も、今は優位性があるとは思えない。縁故的な採用が続いていることも問題だ。
しかし、だからと言って審判部を全否定する材料があるわけではない。

時代の趨勢としてVTRの導入は致し方ないかもしれないが、これを監督の「クレームの機会」にしてはならない。円滑な試合進行を妨げるからだ。また、VTRを見て判断するのは審判だけが行うべきだ。最終的なジャッジは審判が行う。その前提は確保すべきだ。

今回の「誤審」事件を機に、審判の技術的な進化が促進されるべきだとは思う。
それでも「誤審」は起こる。しかし、たとえ誤審が起ころうとも、審判の権威はいささかも揺るがない。それが野球というスポーツだ。


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