1929年と言えば昭和4年である。この年生まれで戦前にプロに行った選手はいない。すべて戦後の選手だ。
ベスト9に主要な選手を加えた。打順も考えた。本年84歳である。26人の選手がいた。
トップには近鉄で活躍した俊足外野手の日下隆。
2番には南海、トンボ、高橋、東映で活躍した遊撃手の前川忠男。犠打が得意だったので適役だ。
3番には南海では主に1番を打った蓑原宏。東映では中軸だった。
そして4番には1965年野村克也と三冠王を争った阪急のダリル・スペンサー。ジャイアンツ、カーディナルスなどで901安打105本塁打の歴とした大リーガーだった。この選手だけが頭抜けている。
5番は毎日、トンボ、高橋、大映でプレーした栗木。足も速かった。
6番は内野守備の名手で、長嶋茂雄の前の立教の花形三塁手でもあった石原照夫。
7番は松竹、高橋、トンボでプレーした西倉実。
8番渡辺光央は、作新学院、宇都宮鉄道局でアマ選手として活躍して国鉄入りした選手。
9番投手は、南山大、トヨタ自動車から毎日入りした滝良彦。新球団高橋ユニオンズのエースとして1年目に開幕投手。16勝を挙げている。
こうしてみるとトンボ、高橋に在籍した選手が4人もいる。
控え組には、53年、米軍キャンプからアルバイトで毎日入りしたレオ・カイリー。51年にボストン・レッドソックスで16試合に先発し7勝を挙げた正真正銘の大リーガーだっただけに実力は群を抜いていた。
カイリーは米軍を除隊後MLBでなお6年プレーした。
樽井克友は岐阜商業時代夏の甲子園で準優勝投手になったスター選手だった。
率直に言って不作の年である。1000試合出場した選手も100勝投手もいない。年によって当たりはずれがあることが良く分かる。
この年代は戦中、戦後間無しに教育を受けており、野球をする環境も不十分だったのかもしれない。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。V9時代のセリーグ打者の成績
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トップには近鉄で活躍した俊足外野手の日下隆。
2番には南海、トンボ、高橋、東映で活躍した遊撃手の前川忠男。犠打が得意だったので適役だ。
3番には南海では主に1番を打った蓑原宏。東映では中軸だった。
そして4番には1965年野村克也と三冠王を争った阪急のダリル・スペンサー。ジャイアンツ、カーディナルスなどで901安打105本塁打の歴とした大リーガーだった。この選手だけが頭抜けている。
5番は毎日、トンボ、高橋、大映でプレーした栗木。足も速かった。
6番は内野守備の名手で、長嶋茂雄の前の立教の花形三塁手でもあった石原照夫。
7番は松竹、高橋、トンボでプレーした西倉実。
8番渡辺光央は、作新学院、宇都宮鉄道局でアマ選手として活躍して国鉄入りした選手。
9番投手は、南山大、トヨタ自動車から毎日入りした滝良彦。新球団高橋ユニオンズのエースとして1年目に開幕投手。16勝を挙げている。
こうしてみるとトンボ、高橋に在籍した選手が4人もいる。
控え組には、53年、米軍キャンプからアルバイトで毎日入りしたレオ・カイリー。51年にボストン・レッドソックスで16試合に先発し7勝を挙げた正真正銘の大リーガーだっただけに実力は群を抜いていた。
カイリーは米軍を除隊後MLBでなお6年プレーした。
樽井克友は岐阜商業時代夏の甲子園で準優勝投手になったスター選手だった。
率直に言って不作の年である。1000試合出場した選手も100勝投手もいない。年によって当たりはずれがあることが良く分かる。
この年代は戦中、戦後間無しに教育を受けており、野球をする環境も不十分だったのかもしれない。
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教育すら受けられなかったのではないでしょうか。
中学入学が42年4月、早生まれでも41年4月、戦争で公式戦はなく、甲子園も文部省主催の大会一度きりです。中学中退で職業野球行きすら不可能だったのでしょう。
>野球をする環境も不十分だったのかもしれない
そこは合ってます。中学生活は学徒動員に駆り出されていたのではないでしょうか。
不作の世代、そうかもしれませんね、ユニオンズの選手が多いこともそれを実証しているのではないでしょうか。
なお、日下をセンター、栗木をライト、自動的に蓑原をレフトでどうでしょうか。