1941年は昭和16年、日米開戦の年だ。この年生まれのベスト9
ベスト9に主要な選手を加えた。打順も考えた。本年72歳である。82人の選手がいた。
なお、この年からDHを加えた。

Sneak Year-1941


1歳上には王貞治、張本勲らがいた。
この年の代表選手は高木守道現中日監督。立浪和義が出るまで、中日の打者の記録はあらかた高木が持っていた。

矢ノ浦国満は、近鉄の遊撃手。人気のあった選手だ。黒い霧事件とのかかわりが取りざたされた。

3番武上四郎は、中央大学、河合楽器を出て67年に新人王。名二塁手だった。引退後はヤクルトの監督、解説者として活躍したが、61歳で没。もう11年になる。

4番は南海、近鉄で活躍したクラレンス・ジョーンズ。荒っぽい長距離打者だった。

5番は阪神、広島の三塁手だった朝井 茂治、なぜか短期間、朝樹一義世と名乗る。私はこの名前、読めない。2010年に物故している。

6番は近鉄の北川公一。慶應出のエリート選手だった。

7番は三沢今朝治。駒大出。この人は控えの外野手だったが、フロント入りしてから出征し、執行役員になる。今はBCリーグ信濃の球団社長を務めている。

8番、山尾孝雄は明星、同志社を経て阪神。短期間だが4番を打ったことがある。私は同窓。体育の教師が、山尾の身体能力は凄かったと言っていたのを記憶している。
9番久保祥次は、カープが弱かった時代の捕手。

投手はメリーちゃんこと、渡辺秀武。巨人、日ハムなどで息の長い活躍をした。この人も2007年に物故している。

控えには中日の水谷寿伸。どちらかというと中継ぎの印象が強かった。
ヤクルトの石岡も先発救援で活躍。鈴木正は、内野のユーティリティ。この人も故人。
石黒は慶應出。ロッテでは一時期中軸を打った。
大橋勲も慶應出、巨人では森昌彦のライバルとなったが、ポジション争いで敗れた。
滝安治はV9時代の控え野手。スポーツライターとしても活躍したが、この人も故人だ。



この年齢になると、半ば物故者になっている。
エリート選手も多いが、地味な役どころ、わき役の渋い選手が多い印象。息の長い活躍をした選手もいる。

この顔ぶれ以外にも国鉄、阪神で活躍した中継ぎ投手鈴木皖武、中日の内野控えの三好守、東大出では一番活躍した投手の新治伸治などがいる。

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