今日から、日本に根付いた野球が、今の姿になるまでを追いかけていきたいと思う。
ただの「野球史」ではなく「どんな人がやっていたのか」「当時の社会的状況はどうだったのか」などの背景も見ていく。
今のNPBのあり様、体質がどのように培われてきたかを知るよすがにしたいからだ。


日本に野球が伝来したのは、1873(明治6)年のことだったとされる(72年説もある)。
いわゆる「お雇い教師」の一人だった米国人のホーレス・ウィルソン(1843-1927)が、開成学校で生徒たちに野球の手ほどきをしたとされる。開成学校はのちの東京大学である。

ウィルソンはアメリカ、メイン州ゴーラムの生まれ。1871年に来日し、第一大学区第一番中学で英語や西洋史を教えた。
この学校が開成学校と改称した72年、千代田区神田錦町3丁目に広壮な校舎ができた。運動場もでき、開校式には明治天皇も訪れた。
ウィルソンは、この運動場にバットを持ち出して球を打ち、学生たちに追いかけさせたのだ。
このとき、打球を追いかけた学生の中には牧野伸顕(1861-1949 伯爵、外務大臣、大久保利通の二男、吉田茂の岳父、麻生太郎の曽祖父)、木戸孝正(1857-1917 侯爵、旧名来原彦太郎、木戸孝允の養子、木戸幸一の父)、小村寿太郎(1855-1911 侯爵、外務大臣)、嘉納治五郎(1860-1938 学習院共闘、講道館柔道創始者)がいたという。
また、ウィルソンの後任のエドワード・H・マジェットも野球を教えたといわれる。

ほぼ同時期に、芝増上寺の境内に開かれた開拓使假学校でも米国人英語教師、アルバート・ベーツが野球を始めたと言われる。開拓使假学校は、札幌農学校、北海道大学の前身だ。ベーツの名は開拓使假学校の設立趣意書にはないが、大蔵省のお雇いだったウィリアムの甥だったという。野球好きだったようで、1本のバットと3個のボールをもって来日し、学生達に野球を教えたという。
この学校は、3年後には札幌に移転することが決まっていた。移転時に野球は北海道に伝搬した。後年、新渡戸稲造(1862-1933 農学者 教育者)も札幌農学校で野球をしたと語っている。

さらに「少年よ大志を抱け」で知られるウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886)も、明治6年に開校した東京英語学校で野球をしたと言われている。クラークはこの学校で教鞭をとったことはないが、講義に来ていたとも言われる。

もう一つ、明治4年に開校した熊本洋学校でも野球が行われたという。この学校もお雇い米国人ジェーンズを招いて設立された。この学校で学んだ徳富蘇峰や海老名弾正なども野球をしたかもしれない。

伝聞中心の不確かな話が多いのだが、ほぼ明治6年前後に、野球は複数のルートでアメリカから持ち込まれたことが分かる。

これは、スポーツの日本伝来の時期としてはかなり早い。
他のスポーツと伝来時期を比較してみよう。

sports-denrai


ボウリングは坂本竜馬も楽しんだという説があるが、普及したかどうかは甚だ怪しい。野球はサッカーとともに、最も早い時期に伝来したスポーツだと言えそうだ。

野球は学生たちにもたらされるや、急速に普及した。

野球百年

日本には剣道、弓道、やわら(のちの柔道)、相撲などはあった。また宮中行事として蹴鞠は伝承されていたが、本格的な球技は日本人には経験したことのないものだった。
身体を動かすこと、そして球を追いかけることの楽しさに、日本人は目を見張ったのだ。

伝来スポーツに最初にふれたのは、ほぼ例外なく当時のトップクラスの教育を受けていた、エリート中のエリート学生だった。
学生の楽しみ、たしなみとして野球は楽しまれた。日本の野球に強く残るアマチュアリズムの根底には、このことがあるのかもしれない。

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