1872~3(明治5~6)年頃に日本に野球をもたらした「お雇い外国人」や、野球用具を持ち帰った留学生たちと、1876(明治9)年にアメリカから帰った平岡煕(ひろし1856-1934)は、どこが違っていたのだろうか。
前回も述べたが、お雇い外国人たちは、野球の専門家ではなかった。また野球に触れた場所や機会もまちまちだった。1860~70年代はアメリカで、野球のルールが統一されつつある時期だったが、各地で異なるルールで野球がされていた。
お雇い外国人によって、日本にもたらされた野球のルールはばらばらだった可能性が高い。
また、お雇い外国人にとっても、初期の日本人留学生にとっても、「野球」は余技に過ぎなかったのだ。

平岡煕ももちろん、アメリカへ野球を学びに行ったわけではない。しかし、平岡は公費で留学した木戸孝正や牧野伸顕などの“御曹司”とは異なり、自費留学だった。鉄道の技術を学ぶために、一工員として、工場に入り込み、下積みを経験した。そして工員たちとともに毎日のように野球をしたのだ。

また、平岡はボストンやフィラデルフィアで鉄道技術を学んだが、1871(明治4)年、平岡が渡米した年にボストンには、ボストン・レッドストッキングスが設立されている。
またフィラデルフィアにもフィラデルフィア・アスレチックスがあった。フィラデルフィアは当時最強のプロチームの一つだった。
平岡は、言わば本場で野球を見聞きし、その面白さに心酔して帰国したのだ。
野球に対する思い入れは、先駆者たちよりもよほど強かったと思われる。

また、日本国内の意識も変化していた。「お雇い外国人」たちが野球を持ち込んだ時期、周囲の日本人たちは、外国人とその生徒が何をしているのか、ほとんど理解できなかった。当時球技は無かったし、そもそもスポーツというものが存在しなかったのだ。

しかし平岡が帰国した頃から、日本では「体育教育」の必要性が急速に高まっていた。「富国強兵」という言葉は幕末からよく使われた。国と富み栄えさせ、兵を強くしなければ、シナ(中国)のように欧米諸国の草刈り場になってしまう。兵力の増強は、急務となっていた。
軍事分野でも多くの「お雇い外国人」が顧問や教官としてかかわっていたが、彼らが口をそろえて言ったのは「日本人の体格の貧弱さ」だった。
幕末に日本を訪れた外国人の手記に多く見えるが、日本人はひときわ貧弱に見えた。当時体を鍛錬する習慣があったのは武士階級でもごく一部に過ぎず、町人に至っては皆無だった。当時の日本人は、体を動かすという習慣がなかったのだ。

お雇い軍事顧問たちからの指摘を受けて日本政府は、1878(明治11)年、体操伝習所を設立。お雇い外国人のリーランドを中心として体育教育が整備された。初期の体育のプログラムには、すでにベースボールやフートボール(サッカー)などが含まれていた。

つまり、ほんの数年前まで「外人さんの風変わりな遊び」とみなされていた野球は、平岡が帰国したときには「富国強兵のための大事な教育の一環」とみなされるようになりつつあったのだ。

平岡は帰国すると、神田三崎町の練兵場に野球場を設けた。そして本格的な野球用具を使って野球を始めたのだ。このときはじめてグラブが2個日本に持ち込まれた。主に捕手が使ったと思われる。
平岡は野球用具の父、スポルディングとも面識があり、野球用具を輸入したともされている。
平岡の兄弟、大蔵少丞郷純造の長男郷温三、樺山愛輔(1865 -1953)などの顔ぶれが集った。郷温三の弟は大実業家の郷誠之助(1865-1942)、樺山愛輔も実業家、貴族院議員になっている。

平岡は明治11(1878)年に新橋鉄道局に勤務したが、ここでも野球に夢中になり、新橋倶楽部(愛称アスレチックス)を創設した。愛称はフィラデルフィアで見たプロチームにあやかったものだろう。日本初の社会人チームだ。と、いうより、日本初の本格的な野球チームだったかもしれない。

当時のチームの写真が残っているが、白のニッカーボッカーに統一した、実にさっそうとしたものだった。
このチームが非常な評判となり、伯爵徳川達孝の徳川ヘルクリスなど都内にいくつも野球チームができた。

平岡は明治15(1882)年、新橋に専用の野球場「保健場」を開設した。これが野球の普及に決定的な役割を果たした。
この「保健場」で野球をするために、当時うまれつつあった多くの学校の学生たちが集まった。やがて各学校に野球チームが生まれた。当時「体育」の必要性が叫ばれていたから、各学校も野球チームの誕生に理解があったのだろう。



こうして2~3年の内に本郷区向ヶ丘の東京大学予備門(開成学校の後身のちの第一高等学校)、虎ノ門の工部大学校(のちの東京帝国大学工学部)、駒場の農学校(のちの東京帝国大学農学部)、青山英和学院(のちの青山学院大学)、波羅大学(のちの明治学院大)、慶應大学などに野球チームができた。

各学校には名手と呼ばれる選手が何人か登場した。なかでも東京大学予備門の岩岡保作と正岡常規は投手として名をはせた。岩岡保作は九州帝国大学教授、機械工学の権威。正岡常規は正岡子規(1867-1902)である。

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