まだ明治時代半ば。でももう少しお付き合い願いたい。私は正岡子規(1867-1902)の野球というと、弟子の高浜虚子(1873-1959)のこのエッセイを思い出す。
少し長いが引用したい。現代仮名遣いに直した。

matsuyama^jo


松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処へ行って当時中学生であった余らがバッチングをやっていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣って来た。
余らも裾を短くし腰に手拭をはさんで一ぱし書生さんの積りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルであることがまず人目をそばだたしめるのであった。
「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊にふくらはぎの露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。
我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。
その人の風采は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯を緩く巻帯にし、この暑い夏であるにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。
先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。
そのうち一度ボールはその人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。(高浜虚子『子規居士と余』)


高浜虚子はとかく徳川家康的な人物とみなされるが、こういう良い文章を書く。子規と虚子はまるで青春ドラマのような出会い方をしたのだ。

とき、1888(明治21)年前後、正岡子規は21歳前後、第一高等中学校(のちの第一高等学校) の学生。7歳下の高浜虚子は伊予尋常中学校の1年生だった。
平岡熙が本格的に野球を普及させて10年程度の歳月が流れていた。

ツンツルテンとは体よりも小さいサイズの服を着ているさまをいう。わざとそういう格好をしたのだ。

虚子のこのエッセイからいろいろなことが見えてくる。

まず、平岡が普及させてわずか10年で、野球は田舎の中学生が遊ぶくらいに広まっていたこと。

まだグラブは使われていなかった。ローリングスはこの2年前に、本格的なグラブを発売し、全米に普及していったが、日本にはまだ入ってこなかった。

そして、正岡子規の技量が抜きんでていたこと。私は虚子のこの文章をはじめて読んだとき、仲間うちで少し野球がうまい程度だと思ったのだが、そうではなく、子規は当時のアマチュア野球(プロはまだなかったけど)の、トッププレーヤーだったのだ。
子規はこの翌年に喀血、結核を発病するが、それまでは身体能力抜群のアスリートだった。

回顧談によれば、子規は第一高等中学校に入学してから野球を始め、工部大学や農学校、平岡熙の新橋倶楽部などと試合をしている。そこで頭角を現したのだろう。



ただ、当時の試合は今の野球とは大きく異なっていた。

子規が野球を始めたときは、シックスボールかファイブボールだった。
打者は、投手に上中下とコースを要求することができる。投手がそのコースに投げることができればストライク、外れればボール。
少し前までスナップを使って投げることは禁じられていたが、当時はOKになっていた。しかし、投手は打者の希望するコースに投げるために、全力では投げなかった。捕手が素手で、ワンバウンドで捕球していたため、一球ごとに時間がかかった。
指定のコースにボールが来るから、打者は良い当たりを連発した。20点、30点と点が入ることも多く、時間も非常にかかった。

子規の時代になっても、野球倶楽部の試合数は少なかったが、それは試合がたっぷり半日以上かかるからだった。

子規はコントロールが良かったようだが、子規の同僚の岩岡保作はカーブボールで相手をほんろうした。日本で最初にカーブを投げたのは平岡熙だとされるが、岩岡は平岡から手ほどきを受けたのかもしれない。

子規が活躍した1886~8(明治19~21)年、野球はまだ牧歌的だった。しかし、その数年後には本格的な協議へと進化した。子規はこのように述べている。

(野球の)ややその完備せるは二十三、四年以後なりとおぼし。これまでは真の遊び半分という有様なりしがこの時よりやや真面目の技術となり技術の上に進歩と整頓とを現せり。

この時期、アメリカでは、野球のルールは急速に整備されつつあった。1889年にフォアボールとなり、1893年に投手から捕手までの距離が現在と同じ18.44mになり、ほぼ現在と同じルールが確立された。これに伴って、野球の試合はスピーディになり、高度な技術が次々と生まれた。

ルール改正の報は、日本には留学生や外国人を通じて、約2年遅れでもたらされた。日本では、アメリカに合わせてその都度ルール改正をした。そして日本でも試合は大きく変貌したのだ。

この時期から現在に至るまで、日本はアメリカでルール改正があると、少し遅れて導入することを繰り返してきた。日米の野球文化は大きく異なっているといわれるが、ルールに関する限り、アメリカの方針を忠実に守ってきたのだ。
日本がアメリカを「野球の師」と仰ぎ、追いつけ追い越せと目標にしてきたルーツをたどれば、こうした経緯に行きつくのではないか。

さて、平岡熙の「新橋倶楽部(アスレチックス)」は、1888(明治21)年、平岡が鉄道局を退職したため、約10年の歴史を閉じた。
野球の主役は正岡子規の後輩たち、「第一高等学校」が担うようになる。

見方を変えれば、正岡子規はトップ選手が「楽しんで野球ができた」最後の世代というべきかもしれない。

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