米国人にとって、その喪失感の大きさは、日本人にとっての先日物故した大鵬幸喜に匹敵するだろう。米野球殿堂入り選手は297人に及ぶが、その中でもトップクラス。歴史的な大選手だった。

報知新聞蛭間豊章記者 記事
川上哲治と同じ1920(大正9)年生まれ。学年でいえば一つ下(意味ないが)。
スタンは、英語圏にも北欧圏にもある名前だが、ミュージアルは北欧系だろう。スタンリーはもとはスタニスラフではなかっただろうか。

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1938年にセントルイス・カージナルス=STLのマイナーに入った時は、投手だった。成績を見る限り、投手としては才能がなかったようだ。コントロールが悪すぎた。
しかし、打者として頭角を現し、3年目にMLBに昇格。日米開戦の年である。

ミュージアルが出たペンシルベニア州のドノラ高校からでたメジャーリーガーは2人しかいないが、もう一人はケン・グリフィSrである。



9/17のデビュー戦は対ボストン・ブレーブスのダブルヘッダーの第2戦。ミュージアルはいきなり3番右翼。4番は“大猫”と言われた強打者ジョニー・マイズ。この打者も殿堂入りだ。ミュージアルはジム・トービンから2安打を放った。
このシーズン残り12試合で20安打を放って才能を決定づけたミュージアルは、翌年にはレギュラーの座を不動のものにした。
2年目で打率2位、3年目には首位打者を獲得しMVP。

1945年は、兵役で1年を棒に振る。しかし、2歳年上のテッド・ウィリアムス、6歳上のジョー・ディマジオがまる3年兵役に取られたことと比べれば、まだ幸いだと言えよう。

ミュージアルは、戦前は「安打製造機」的な評価であり、スラッガーとはみなされていなかった。2番を打つことも多かった。

しかし、戦後は長打が出るようになり、リーグを代表する強打者となった。特に球足の速い二塁打はミュージアルの真骨頂だった。

まだエクスパンション前のMLBでは規定打席に達する選手は毎年1リーグ40人前後だった。とはいえ、出場した16シーズン連続で打撃ベスト10入りは驚異的だ。
1950年代のSTLは、打線が弱体で、ミュージアルが一人でチームを引っ張っている感があった。「ザ・マン」という名前もそこからつけられたのではないか。優勝には程遠く、孤軍奮闘している感があった。
打撃はそれほど衰えなかったが、40歳を迎えるころからミュージアルは30試合前後を欠場するようになった。そして1963年を最後に引退。43歳だった。

基本的にはバランスの良い中距離打者。本塁打は安打の延長だったのだろう。外野を1890試合守り、1塁を1016試合守った。

1952年9月28日のシカゴ・カブス戦、中堅を守っていたミュージアルは、先発ハディックスが先頭のブラウンを歩かせると、マウンドに上がって2番バウムホルツに対峙した。バウムホルツは三塁ゴロ。しかし三塁のソリー・ヘイムスがこれをエラー。ここでミュージアルは再び中堅に戻った。MLBでただ一度だけの登板だった。

最後の試合はシンシナティ・レッズ戦。相手チームの1番は、のちに自らのナリーグ記録3630安打を抜くことになるピート・ローズだった。

私にとって、スタン・ミュージアルはオールスターゲームなどで車いすに乗っている老人だったが、アメリカの野球ファンは、引退後半世紀も彼を称賛し続けたのだ。

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