一高時代、後半について戦績を追いかける。
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明治30年、主力選手投手青井鉞男、捕手藤野修吉、野手上村行栄らが東京大学に進学すると、一高は弱体化した。

勝ったり負けたりの状態が以後、2年間続いた。

明治32年、野球強豪校で一高とも連合チームで対戦したことのある独逸協会中学から守山恒太郎が一高に入学した。左腕の守山は快速球の持ち主だった。

この年の秋に新チームが結成された。新チームは青山学院に挑戦状をたたきつけたが、連敗。青学の遊撃手は橋戸信。後に早稲田大学に進み、ジャーナリストとなる。都市対抗野球の生みの親だ。
一高に入ったばかりの守山は球は速いが、コントロールが悪く、走者をよく出した。
明治33年、3年ぶりに横浜でアマチュア選手との戦いがもたれた。この試合は一高が快勝したが、翌年5月、再戦が持たれた。この試合がもつれにもつれたのだ。

8回を終わって3-6と敗けていた一高は、9回、守山のタイムリーヒットで1点差に詰め寄る。走者1,2塁。次打者久保田敬一、相手投手ブレークの初球は久保田のユニフォームの袖をかすめたが、審判プットナムは認めない。二球目は左肩にボールが当たったが審判は久保田が球をよけなかったとしてアウトを宣告。一高は無念の敗戦を喫した。久保田敬一は男爵久保田譲の子。終戦前後の日本通運社長、貴族院議員。

これを遺恨と受け止めた一高ナイン、とりわけ守山は雪辱を期した。

以後、一高は打倒アマチュア倶楽部を合言葉に猛練習に励んだ。守山は連日、学校の野球部倉庫の煉瓦の壁に向けてボールを投げた。ついには左ひじが曲がらなくなったが、それでも投げ続け、絶妙のコントロールを体得したという。

そして明治35年5月、守山はアマチュア倶楽部を横浜で完封し、宿願を果たしたのだ。
この年、守山は東京大学に進み、後輩たちによって新チームが結成された。

一高は、天下に並ぶもののない強豪となったが、このころから慶應大学が実力をつけた。また、新興の早稲田大学も急速に力を付けた。

一高は明治36年までは最強チームだった。この年の2月の練習試合でも、1番投手、2番捕手、3番一塁手と、守備位置と打順が同じという「殿さまオーダー」で慶應に対していた。
しかし、明治37年6月に、一高は初対戦の早稲田、そして慶應に連敗。一高時代は終わりを告げたのである。
早稲田と慶應は前年の11月に初めて対戦し接戦の末慶應が勝利していたが、以後野球の主役はこの両校へと移行した。

一高最後の大エース守山恒太郎は医学の道に進むも、明治45年に夭折。1966年に野球殿堂入りしている。

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一高時代は、あくまで野球を余技とする人々によって担われていた。中には青井鉞男のように、野球に一生をささげた人もいたが、多くは大学に進むと野球をやめ、卒業後は政官学界へと雄飛した。

一高時代に一高を卒業した野球部員66 名のうち、同窓会名簿に名前のないもの4 名、職歴不明のもの9 名を除いた53 名の経歴は(重複含む)、大学教授10名、社長・取締役16 名、衆議院・貴族院議員4名、大臣2 名、医師5 名、官僚12 名などである(中村哲也 『一橋大学スポーツ研究』)。

それだけに一高野球部は、純粋に母校の栄誉のために戦ったともいえる。良くも悪くもアマチュアリズムが、一高野球の最大の特色だった。

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