一高生の多くは、卒業すれば東京帝国大学に進む。そして社会に出るとすぐに官庁や学校などの幹部ポストに収まった。彼らは「富国強兵」のリーダーとなることが約束されていた。まさにエリート中のエリートだった。
インテリエリートが、ニヒリズムに染まるのはまだずっと後のことである。また、ロシア革命前のことでもあり、左翼思想もほとんど入ってきていなかった。
当時の一高生の多くは、「日本の将来は俺が担う」という強い自負と、「国の期待を一身に背負っている」という使命感に支配されていた。また、武士道の影響も強く受けていた。
「弊衣破帽=くたびれた着物、破れた帽子」と言われる服装や、バンカラ(野蛮でハイカラ)といわれる行状は、こうした高揚感に裏付けられていたのだ。
一高の野球に対する姿勢も、バンカラそのものだった。
前期(1890-96年ごろ)の一高は練習でも素手で球を受けていた。一番硬いボールを選んでノックをしてもらい、これに猛然と突進するのが正しいとされた。
一高生たるもの「痛い」「怖い」などと言ってはならない。「痛い」の代わりに「痒い」と言え。といわれた。
紹介したとおり、一高は明治30年まで試合でもミットを使わず素手でプレーをしていた。用具が手回らなかったという面もあろうが、同時に「ミットなど用具を使うのは卑怯である」という意識もあったようだ。
「痛い」「怖い」と言わない背景には、武士道の影響も十分にあったことだろう。
こうしたやせ我慢の精神主義と猛練習が、一高野球の一つの特長だった。
一高野球は、ひとり野球部だけのイベントではなく、第一高等学校挙げての大事業でもあった。彼らの試合には「学校の名誉」がかかっていた。当時、学生スポーツでは野球のほか、柔道やボートが人気だったが、一高三高など学校の対抗戦では、複数のスポーツで優劣を競う場合も多かった。
当時の新聞や雑誌には「柔道では負けたが、野球では勝った」「野球、柔道で負けたがボートで面目を保った」などの文言が躍っている。野球部員たちは学校の栄誉に加えて「他の運動部に負けてなるものか」という競争意識も強かった。
さらに、横浜での外国人との試合が始まると、一高野球部は「国の名誉」も背負うようになった。教師や一高生は大挙して試合場に押し掛け、大応援をした。新聞社もその試合を大々的に報道した。
横浜での対戦相手は日本に居住する一般市民であり、当初はレクリエーションのつもりで一高と対戦したと思われる。しかし彼らの過熱ぶりに挑発されて、外国人たちも次第にエスカレートしていった。横浜に寄港している軍艦の乗組員の選抜チームを結成したり、ついにはプロ選手を駆り出したりもしたのだ。
そこにはスポーツを通じた親善や交流という発想はない。ひたすら勝利を目指す「一戦必勝」が貫かれていた。どんな理由があれ、敗北することは恥辱であり、学校の名誉を汚すことである。
だから、一高は一敗地にまみれると、相手に執拗に再戦を挑んだ。何としても雪辱しなければ、学校に帰れないという思いがあったのだ。
アメリカではすでにこの時期、130試合前後のリーグ戦が行われていた。ペナントレースを全勝することなどあり得ない。勝ったり負けたりしながら戦っていくものだ。
しかし、日本では野球は「何が何でも勝たなければいけない」ものだった。この極端な「勝利至上主義」が、もう一つの特長だった。
一高のこうした体質を体現した一人に守山恒太郎がいる。独逸協会中学時代から左腕投手として鳴らした守山は、一高に入るとエースとして活躍するようになった。
しかし、明治34年、横浜でのアマチュア倶楽部との試合で死球をめぐるトラブルの挙句に惜敗。
このとき守山は「自分がもう少しコントロールが良かったら、このような試合をせずに済んだのだ」と悔やんで、猛練習を始める。
寮の煉瓦の壁に向かって毎日何百球も投げたのだ。挙句に左腕はくの字に曲がってしまったが、柿の木にぶら下がって無理に引き伸ばし、なおも練習をし、1年後見事雪辱を果たした。しかしその投球は腕の激痛を耐え忍んでのものだったという。
東京帝国大学に進学後、守山は後輩たちの試合の主審を買って出たが、しばしば一高に有利なジャッジをした。新興の慶應大学、早稲田大学の学生たちは守山が審判を務めることに難色を示したが、守山は何食わぬ顔で主審を務めたという。
一高野球部員の多くは大学に進むと、瘧が落ちたように野球熱が冷めた。そして学問や実業などに世界に力を発揮していった。エリート社会は競争社会であり、野球に現を抜かす暇はなかったのだ。
彼らにとっては野球は、青春の一ページに過ぎなかった。
ただし、その後、日本で野球が「国技」と言われるまでの人気スポーツになった背景には、政官財のトップの多くが、若い日に野球に打ち込んだ経験を有していたことが大きい。野球に理解のある人々が、日本の国を動かしていたことが、野球の発展に大きく寄与したのだ。このあたり、サッカーなど他のスポーツと大きく異なっている。
一高、東京帝国大学は、日本の「学歴崇拝」の嚆矢でもあり、その頂点であり続けたから、他の学校はあらゆる面で、一高のやり方を盲従した。
野球においても同様だった。一高野球の「精神主義」「猛練習」「勝利至上主義」は、ほとんどの学校の野球部で取り入れられた。
今に至る日本のアマチュア野球の「特色」「体質」は、淵源をたどれば一高野球に行きつくと言っても良いと思う。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。今日は1970年の先発投手の成績
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当時の一高生の多くは、「日本の将来は俺が担う」という強い自負と、「国の期待を一身に背負っている」という使命感に支配されていた。また、武士道の影響も強く受けていた。
「弊衣破帽=くたびれた着物、破れた帽子」と言われる服装や、バンカラ(野蛮でハイカラ)といわれる行状は、こうした高揚感に裏付けられていたのだ。
一高の野球に対する姿勢も、バンカラそのものだった。
前期(1890-96年ごろ)の一高は練習でも素手で球を受けていた。一番硬いボールを選んでノックをしてもらい、これに猛然と突進するのが正しいとされた。
一高生たるもの「痛い」「怖い」などと言ってはならない。「痛い」の代わりに「痒い」と言え。といわれた。
紹介したとおり、一高は明治30年まで試合でもミットを使わず素手でプレーをしていた。用具が手回らなかったという面もあろうが、同時に「ミットなど用具を使うのは卑怯である」という意識もあったようだ。
「痛い」「怖い」と言わない背景には、武士道の影響も十分にあったことだろう。
こうしたやせ我慢の精神主義と猛練習が、一高野球の一つの特長だった。
一高野球は、ひとり野球部だけのイベントではなく、第一高等学校挙げての大事業でもあった。彼らの試合には「学校の名誉」がかかっていた。当時、学生スポーツでは野球のほか、柔道やボートが人気だったが、一高三高など学校の対抗戦では、複数のスポーツで優劣を競う場合も多かった。
当時の新聞や雑誌には「柔道では負けたが、野球では勝った」「野球、柔道で負けたがボートで面目を保った」などの文言が躍っている。野球部員たちは学校の栄誉に加えて「他の運動部に負けてなるものか」という競争意識も強かった。
さらに、横浜での外国人との試合が始まると、一高野球部は「国の名誉」も背負うようになった。教師や一高生は大挙して試合場に押し掛け、大応援をした。新聞社もその試合を大々的に報道した。
横浜での対戦相手は日本に居住する一般市民であり、当初はレクリエーションのつもりで一高と対戦したと思われる。しかし彼らの過熱ぶりに挑発されて、外国人たちも次第にエスカレートしていった。横浜に寄港している軍艦の乗組員の選抜チームを結成したり、ついにはプロ選手を駆り出したりもしたのだ。
そこにはスポーツを通じた親善や交流という発想はない。ひたすら勝利を目指す「一戦必勝」が貫かれていた。どんな理由があれ、敗北することは恥辱であり、学校の名誉を汚すことである。
だから、一高は一敗地にまみれると、相手に執拗に再戦を挑んだ。何としても雪辱しなければ、学校に帰れないという思いがあったのだ。
アメリカではすでにこの時期、130試合前後のリーグ戦が行われていた。ペナントレースを全勝することなどあり得ない。勝ったり負けたりしながら戦っていくものだ。
しかし、日本では野球は「何が何でも勝たなければいけない」ものだった。この極端な「勝利至上主義」が、もう一つの特長だった。
一高のこうした体質を体現した一人に守山恒太郎がいる。独逸協会中学時代から左腕投手として鳴らした守山は、一高に入るとエースとして活躍するようになった。
しかし、明治34年、横浜でのアマチュア倶楽部との試合で死球をめぐるトラブルの挙句に惜敗。
このとき守山は「自分がもう少しコントロールが良かったら、このような試合をせずに済んだのだ」と悔やんで、猛練習を始める。
寮の煉瓦の壁に向かって毎日何百球も投げたのだ。挙句に左腕はくの字に曲がってしまったが、柿の木にぶら下がって無理に引き伸ばし、なおも練習をし、1年後見事雪辱を果たした。しかしその投球は腕の激痛を耐え忍んでのものだったという。
東京帝国大学に進学後、守山は後輩たちの試合の主審を買って出たが、しばしば一高に有利なジャッジをした。新興の慶應大学、早稲田大学の学生たちは守山が審判を務めることに難色を示したが、守山は何食わぬ顔で主審を務めたという。
一高野球部員の多くは大学に進むと、瘧が落ちたように野球熱が冷めた。そして学問や実業などに世界に力を発揮していった。エリート社会は競争社会であり、野球に現を抜かす暇はなかったのだ。
彼らにとっては野球は、青春の一ページに過ぎなかった。
ただし、その後、日本で野球が「国技」と言われるまでの人気スポーツになった背景には、政官財のトップの多くが、若い日に野球に打ち込んだ経験を有していたことが大きい。野球に理解のある人々が、日本の国を動かしていたことが、野球の発展に大きく寄与したのだ。このあたり、サッカーなど他のスポーツと大きく異なっている。
一高、東京帝国大学は、日本の「学歴崇拝」の嚆矢でもあり、その頂点であり続けたから、他の学校はあらゆる面で、一高のやり方を盲従した。
野球においても同様だった。一高野球の「精神主義」「猛練習」「勝利至上主義」は、ほとんどの学校の野球部で取り入れられた。
今に至る日本のアマチュア野球の「特色」「体質」は、淵源をたどれば一高野球に行きつくと言っても良いと思う。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。今日は1970年の先発投手の成績
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その一高の流れをくむ東大の野球部にアンチ精神野球を大々的に唱える桑田氏がコーチに就任し指導しているというのがまた面白いですね。