アレックス・ロドリゲスは、並み居る同時代のスラッガーの中で、一頭地を抜く存在だったことは間違いがない。
キャリアSTATS。
1993年のドラフトいの一番。デレク・リーやジェイソン・バリテック、クリス・カーペンターらが同期だが、この中でもひときわぬきんでた存在だった。
シアトル・マリナーズの首脳陣は、彼が入団してきてすぐに、「MLBで通用する逸材」であることにきがついたのだろう、超エリートにはよくあることだが、マイナー・リーグを数十試合ずつ経験させて、1年を待たずMLBに上げた。
翌年はAAAとMLBを掛け持ちさせたが、3年目にはMLBでレギュラーとなり、その年に首位打者を取っているのだ。10年に一人の逸材だったのだろう。
この頃のA-RODは、本塁打も打っていたがバランスの良い中距離打者という印象があった。しかし、2001年に10年2億5千万ドルという巨額の年俸でテキサス・レンジャーズ=TEXに移籍したころから、にわかにホームランが増える。
これは、バリー・ボンズ、マグワイア、ソーサらの本塁打狂想曲に刺激を受けたからだろう。同時に彼らも使っていたとされる薬物を使用したからかもしれない。
そして2004年、ニューヨーク・ヤンキースへ。TEXとの契約の引き継ぎ、そしてその満了後は出来高払いを含め2017年まで10年3億ドルという空前の契約を結んだ。辣腕代理人スコット・ボラス、会心の契約だっただろう。
A-RODは、42歳までNYYで年俸に見合う、つまりMLB一番の活躍をしなければならなくなったのだ。
本人もインタビューで答えているが、この非常識な年俸が、プレッシャーとなって薬物にも手を出すようになった。
2001年頃は、本塁打を打ちたいとの思いから薬物に手を出したが、2009年以降は成績を落としたくないとの思いで、薬を投与したのだろう。
よく覚えているのは2009年、A-RODは8月末までは松井秀喜とほぼ同程度の成績(23本塁打、70打点、松井は23本塁打、72打点)だった。しかしA-RODは9月に猛然と打ちまくり30本塁打100打点とした(松井は最終28本塁打90打点)。
なんとしても数字を上げなくては、そして年俸1300万ドルの松井とは差を付けねばという執念を感じた。
しかし、寄る年波もあり、故障も相次いでA-RODは、悲惨な状況にある。今季は臀部の手術をしたために大きく出遅れると報じられた。全休するとも言われている。
その矢先に薬物報道があったのだ。
過大な期待、巨額すぎる年俸が、A-RODの野球人生をゆがめたのは間違いがない。
A-RODは、シアトルやテキサスではブーイングを浴びる身である。無理な「出世」が人々の反感を買ってもいる。その臆病な気質が、人々の失笑を買うこともある。実力があるにもかかわらず、誠に残念なことではある。
薬物に頼らなくても、A-RODは素晴らしい成績を上げたのだと思う。多少本塁打は減ったかもしれないが、糸を引くようなライナーをグランド内に打ち分ける打者になったのではなかったか。
文字通り「クリーンヒット」を打つ選手になっていた可能性があると思う。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。1965年の投手陣 セリーグ
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1993年のドラフトいの一番。デレク・リーやジェイソン・バリテック、クリス・カーペンターらが同期だが、この中でもひときわぬきんでた存在だった。
シアトル・マリナーズの首脳陣は、彼が入団してきてすぐに、「MLBで通用する逸材」であることにきがついたのだろう、超エリートにはよくあることだが、マイナー・リーグを数十試合ずつ経験させて、1年を待たずMLBに上げた。
翌年はAAAとMLBを掛け持ちさせたが、3年目にはMLBでレギュラーとなり、その年に首位打者を取っているのだ。10年に一人の逸材だったのだろう。
この頃のA-RODは、本塁打も打っていたがバランスの良い中距離打者という印象があった。しかし、2001年に10年2億5千万ドルという巨額の年俸でテキサス・レンジャーズ=TEXに移籍したころから、にわかにホームランが増える。
これは、バリー・ボンズ、マグワイア、ソーサらの本塁打狂想曲に刺激を受けたからだろう。同時に彼らも使っていたとされる薬物を使用したからかもしれない。
そして2004年、ニューヨーク・ヤンキースへ。TEXとの契約の引き継ぎ、そしてその満了後は出来高払いを含め2017年まで10年3億ドルという空前の契約を結んだ。辣腕代理人スコット・ボラス、会心の契約だっただろう。
A-RODは、42歳までNYYで年俸に見合う、つまりMLB一番の活躍をしなければならなくなったのだ。
本人もインタビューで答えているが、この非常識な年俸が、プレッシャーとなって薬物にも手を出すようになった。
2001年頃は、本塁打を打ちたいとの思いから薬物に手を出したが、2009年以降は成績を落としたくないとの思いで、薬を投与したのだろう。
よく覚えているのは2009年、A-RODは8月末までは松井秀喜とほぼ同程度の成績(23本塁打、70打点、松井は23本塁打、72打点)だった。しかしA-RODは9月に猛然と打ちまくり30本塁打100打点とした(松井は最終28本塁打90打点)。
なんとしても数字を上げなくては、そして年俸1300万ドルの松井とは差を付けねばという執念を感じた。
しかし、寄る年波もあり、故障も相次いでA-RODは、悲惨な状況にある。今季は臀部の手術をしたために大きく出遅れると報じられた。全休するとも言われている。
その矢先に薬物報道があったのだ。
過大な期待、巨額すぎる年俸が、A-RODの野球人生をゆがめたのは間違いがない。
A-RODは、シアトルやテキサスではブーイングを浴びる身である。無理な「出世」が人々の反感を買ってもいる。その臆病な気質が、人々の失笑を買うこともある。実力があるにもかかわらず、誠に残念なことではある。
薬物に頼らなくても、A-RODは素晴らしい成績を上げたのだと思う。多少本塁打は減ったかもしれないが、糸を引くようなライナーをグランド内に打ち分ける打者になったのではなかったか。
文字通り「クリーンヒット」を打つ選手になっていた可能性があると思う。
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。1965年の投手陣 セリーグ
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>薬物に頼らなくても、A-RODは素晴らしい成績を上げたのだと思う。多少本塁打は減ったかもしれないが、糸を引くようなライナーをグランド内に打ち分ける打者になったのではなかったか。
ボンズもステロイドに手を出す前は、A-RODに似たタイプの選手でした。「30-30」や「40-40」を毎年狙えるような、打撃のみならず、スピードもある5ツールの選手でした。
しかし、本文でご指摘のように、マグワイヤ、ソーサの本塁打狂想曲によって、このようなトータルで優れた選手への評価が霞みがちになったのは否めません。ある年のインタビューでボンズはそのことに非常にいらだっている様子がうかがえましたが、そのインタビューの直後の年に「あの73本」を記録していることから、たぶん彼が薬に手を染めたきっかけは、そういう「本塁打至上主義」というアメリカの野球ファン、野球メディアの風潮にあったのでしょう。
A-RODも似たような心境だったのではないでしょうか。自分だって同じことをすれば、あいつらには絶対に負けるわけはないという思いで、やはり薬に手を染めてしまったように思います。