なかなかピッツバーグ・パイレーツがもう1勝を挙げないので、このタイミングでご紹介する。パイレーツは20年連続負け越しと言う記録に終止符を打つ。
20年連続負け越しは、アメリカプロスポーツ史上最長なのだそうだ。横浜DeNAは昨年まで12年連続負け越し、ずいぶん弱いと思うが、それをはるかに上回る。
私たちがMLBを見始めた頃、パイレーツはNLの強豪の1つだった。
ロベルト・クレメンテ、ウィリー・スタージェル、デーブ・パーカーとスター選手のバトンが受け継がれ、攻撃的なチームとしてペナントレースを沸かせていた。
この名門が、どうしてここまで落魄したか、4つのディケードを通して見て行きたい。投打のチームリーダーも示す。
1971年から90年まで。

ロベルト・クレメンテは72年は規定打席に達していなかったが、.312と38歳とは思えぬ充実ぶりだった。しかしこの年12月にニカラグアの地震救援の飛行機に乗って墜死。
そのショックもあってか、翌年は負け越すが、ウィリー・スタージェルがチームを引っ張って、74年には優勝。以後も70年代はフィラデルフィア・フィリーズとナリーグ東地区の覇権を争う強豪となった。
スタージェルが衰えると、今度はデーブ・パーカーが登場。ライフルアームの持ち主。バランスの良い中距離打者、まさにクレメンテの後継者にふさわしかった。
投手陣は伝統的に弱体だが、ジョン・キャンデラリアと言うスターが現れた。


しかし80年代に入ると低迷する。デーブ・パーカーが急激に衰え、コカイン中毒も発覚する。中心打者がいなくなったのだ。
84年からパイレーツは3年連続最下位。監督もチャック・タナ―からジム・リーランドに交替。
もともとピッツバーグは30万都市であり、広域圏も200万人と市場が小さいこともあって、観客動員には苦労してきた。
スリー・リバース・スタジアムは、NFLスティーラーズと兼用であり評判も良くなかった。
観客動員は1試合1万人を割るようになる。
このどん底からチームを救ったのは、86年にデビューしたバリー・ボンズだった。
ボンズがスターダムに駆け上がるとともにチームは回復したのだった。
以下続く。
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クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。1989年斎藤雅樹の大快投 田中将大と比較してみるべし

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ロベルト・クレメンテ、ウィリー・スタージェル、デーブ・パーカーとスター選手のバトンが受け継がれ、攻撃的なチームとしてペナントレースを沸かせていた。
この名門が、どうしてここまで落魄したか、4つのディケードを通して見て行きたい。投打のチームリーダーも示す。
1971年から90年まで。

ロベルト・クレメンテは72年は規定打席に達していなかったが、.312と38歳とは思えぬ充実ぶりだった。しかしこの年12月にニカラグアの地震救援の飛行機に乗って墜死。
そのショックもあってか、翌年は負け越すが、ウィリー・スタージェルがチームを引っ張って、74年には優勝。以後も70年代はフィラデルフィア・フィリーズとナリーグ東地区の覇権を争う強豪となった。
スタージェルが衰えると、今度はデーブ・パーカーが登場。ライフルアームの持ち主。バランスの良い中距離打者、まさにクレメンテの後継者にふさわしかった。
投手陣は伝統的に弱体だが、ジョン・キャンデラリアと言うスターが現れた。
しかし80年代に入ると低迷する。デーブ・パーカーが急激に衰え、コカイン中毒も発覚する。中心打者がいなくなったのだ。
84年からパイレーツは3年連続最下位。監督もチャック・タナ―からジム・リーランドに交替。
もともとピッツバーグは30万都市であり、広域圏も200万人と市場が小さいこともあって、観客動員には苦労してきた。
スリー・リバース・スタジアムは、NFLスティーラーズと兼用であり評判も良くなかった。
観客動員は1試合1万人を割るようになる。
このどん底からチームを救ったのは、86年にデビューしたバリー・ボンズだった。
ボンズがスターダムに駆け上がるとともにチームは回復したのだった。
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あ、フィラデルフィアの切り方がおかしいです。