【2009年6月13日「MLBをだらだら愛す」掲載過去記事】

「ランディ・ジョンソン300勝に寄せて」で、藤川、久保田について言い及んだところ、いろいろコメントをいただいた。もう一昨年から、私はJFKことに久保田の登板過多が気になって仕方がなかった。日本記録のシーズン90試合登板は、ある意味では「狙ってとったもの」ではあったが、同時に監督の岡田は久保田を無定見に酷使していたと思うのだ。

以下は、2007、2008年のJFKの登板を日を追って記録したものである。

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2007年の前半は、JFKがまだ十分に機能していた。先発投手が不調だった分、この3人がそろい踏みして勝利を得る方程式がたびたび実行された。ただ、その時期から久保田だけはJFが出ない日も登板した。僅差での負け試合や同点の終盤、さらには2番手での登板も多かった。こうして一人登板数を増やしていったのだが、5月頃からウィリアムスがコンディション不調で登板回避をすることがあり、その分久保田の登板機会がさらに増えるようになった。100試合の段階で、62試合に登板。これまでのシーズン登板試合数の記録は2005年の藤川の80だったが、岡田は「この記録を抜いてみるか」と言ったように記憶している。久保田は残る44試合で28試合に登板し、見事記録を作った訳だ。しかし、JFKは後半に失速し、阪神は3位に終わった。チーム全体の完投がわずか3度、規定投球回数に達した選手が皆無、阪神の投手陣はJFKを中核とする中継ぎ陣が支えていたのだ。

2008年は、開幕直後からウィリアムスが戦線離脱。JFがフル回転した。5月にウィリアムスが復帰してからも、久保田の登板回数は減らなかった。北京オリンピックで藤川が抜けた分も久保田がかぶる格好だった。結局、この年の終盤に久保田は潰れるのである。100試合時点での登板数は55試合、このままいけばまた80試合以上は投げることになっただろうが、9月に入って明らかに変調をきたし、69試合にとどまったのである。しかしこの数字でも2008年の最多登板だった。

 

久保田はこの2年で159試合に登板した。NPBでは2年間で150試合以上登板した投手は過去に久保田と2004~5年の藤川しかいない。監督の星野、岡田や幹部はこの数字がいかに異常であるかを認識していなかったのだろうか。「今、何ともない」というだけで、無定見に投手を使っていくうちに消耗していくことがわからなかったのだろうか。JFKの方程式以外の投手起用策をなぜ真剣に考えなかったのだろうか。捨てゲームを作らずに、すべてのチャンスをJFKでものにしようとする、それは作戦とも言えないだろう。今の真弓阪神は、星野、岡田阪神の負の遺産を受け継いでいるようなものである。

NPBでも現在の阪神のこのやり方は非常識ではあろうが「登板することで肩は鍛えられる」という信仰は根強いようである。

シーズンオフに久保田は「先発投手に転向したい」との意向を洩らしたが、悲痛な感じがした。ようやくファームで投げ始めたようだが、彼はもう中継ぎは望んでいないように思えるのだが。

■後日談:今年をもってJFKは終わりを告げた。偉業と言うより悲惨と言いたい気がする酷使ぶりである。日本の投手用兵の問題点が個々にある。