田中将大の移籍をめぐる話、野球放送に関する話。ここ二日間、自分の考えをブログで表明して、私が野球の何を大切にしているのか、がはっきりした。
要するに、私は何よりも、野球選手が自分の才能を十二分に発揮してほしいと思っているのだ。1試合でも多く出場し、少しでも長くキャリアを重ねてほしい。
私は野球を見るのが好きだ。投げたり、打ったり、走ったり、守ったりするのを一日中でも見ていることができる。
多くの場合、スコアを付けながら見るが、それは個々の選手のプレーを記憶の中に少しでもとどめておこうと言う努力だ。
そうした観戦のその先に「記録」というものがある。
私にとって「記録」は、私が見逃したプレーも含めた選手の個々のプレーの集積であり、野球選手と言うクリエイティブの「ディスコグラフィ」や「フィルモグラフィ」のようなものである。
例えばイチローのキャリアSTATS
興味のない人から見れば、単なる数字の羅列のように見えるかもしれないが、この表には、イチローと言う不世出の選手の打撃のすべてが詰まっている。
無名の選手として入団したイチローは、3年目に突如ブレークし、以後7年間、NPBで最高の選手として活躍する。
7年連続首位打者を取っただけでなく、長打力もトップクラス。95年にはあと3本塁打で4冠王になるところだった。
イチローは最高出塁率を5回もとっている。NPB時代は打率の高さに加えて、四球も少なくはない選手だったのだ。
1999、2000年は20試合以上欠場。「これ以上NPBで数字を残しても意味はない」という倦怠感がこの数字からも漂ってくる。
しかしMLBに移籍すると、NPBとの格差によって、イチローの打撃は変質する。打率は一割程度下落、長打は2割も落ちた。
そんな中で、イチローは「安打を量産する」道を選択し、四球を選ぶことなく、多くの打席に立って一本でも多くの安打を打とうとした。
このスタイルを貫いたために、イチローは称賛とともに批判を浴び続けた。しかし、イチローはイチローであり続けた。
2011年から成績が急落、イチローは明らかに晩年を迎えている。彼が自分のスタイルを貫いたのは見事であり、その結果として「殿堂入り確実」な成績を積み上げたのは「偉業」というべきだろう。
キャリアSTATSにはそうしたイチローの野球人としてのすべてが詰まっているのだ。
私が、田中将大の移籍に関する楽天の対応を批判したり、巨人が井端、片岡と二人のレギュラー級の野手を同時に獲得するのを批判するのも「選手の方が球団よりも大事」という考え方があるからだ。
田中将大が、次のステージへ移るべき時が来ているのは、衆目の一致するところだ。その田中が、楽天球団の「事情」によって、将来展望を摘まれとすれば、残念で仕方がない。
「選手は球団に所属するのだから、球団の言うことを聞くべきだ」と言うかも知れないが、彼らは才能一本、腕一本で世渡りをしている「才人」でもあるのだ。彼らの才能は我々ファンの共有物であり、ちまちましたチーム事情で発展を妨げられるものではない。
井端の例でいえば、多くの人が「井端は二塁だけでなく、遊撃の坂本の控えにもなる。両方の控え選手として獲得したのだ」という。井端もそれを納得して契約したのだろうが、1807安打も打ってきた名選手が、確たる衰えもないのに控えに甘んじようとするのが残念でならない。「巨人」というブランドは特別なのかもしれないが、野球選手のキャリアを考えるなら、井端はレギュラーで出場する可能性のある球団に行ってほしかったと思う。
「チームの勝利のために選手のキャリアを犠牲にするのは、当然の話ではないか」と言われるかもしれないが、私はそうは思わない。
それは「企業社会」と言われる日本でしか通用しない考え方だと思う。
日本の企業では社員は、会社の業績のためにすべてを投げうつ。休日出勤、残業、転勤。個々の人生は企業の都合で大きく捻じ曲げられる。
それでも社員は会社に感謝し、忠誠を誓う。会社が左前になってリストラを喰らうときでさえ
「助けてもらった会社の恩義に報いるために辞めてくれ」といわれて身を引いた人さえいると言う。
北朝鮮みたいだ、と言うのは言い過ぎだろうが、サラリーマン生活をやめた私のような人間からは、かなり異様に思える。
江戸時代の大名、藩に仕える侍と何ら変わりがない倫理観、価値観が21世紀の今もまかり通っている。
そういう日本社会では「選手より球団」という考え方は理解されやすいのだと思う。
しかし、野球選手は「社員」ではない。才能だけで世渡りをする「個人事業主」だ。契約によって縛られている身ではあるにせよ、自らの才能を十二分に発揮するために、活躍のステージを選ぶ権利がある。
私はそれを理解し、彼らの能力が最大限に発揮されるのを見たい。それがキャリアSTATSに刻み込まれるのを見たい。
MLBでもチームオーダーは存在する。しかしそれは短期間だ。
シーズン中に控えや代打などに回る選手は常に存在する。しかし多くの選手はそれに不満を持って翌シーズンにはさらなる出場機会を求めて移籍する。チームもそれに理解を示す。
日本のように「控え」「当て馬」「捨て駒」人生を送るような選手は少ない。ことに偉大な実績を持つ選手が出場機会の減少を甘受することはあまりない。
日米の「職業観」の差異を反映しているようで興味深いが、MLBの考え方の方がスタンダードだろう。
日本では、野球のみならずチームの力が強すぎることで、選手は服従を強いられる。暴力沙汰やパワハラなども、そうした風土で生まれる。
私は選手が本来の能力を十分に発揮するのを見たい。その能力を結集させて勝ち進む球団を讃えたい。あたらレギュラー選手をチームのためと称して、デッドストックするような球団を支持しない。また球団の利益のために、選手の未来を犠牲にするような球団も応援しない。
もちろん、他の考えの方がいることは承知しているし、その考えは尊重するが、私は選手本位主義、「チームより選手」である。その考えは変えない。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!
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私は野球を見るのが好きだ。投げたり、打ったり、走ったり、守ったりするのを一日中でも見ていることができる。
多くの場合、スコアを付けながら見るが、それは個々の選手のプレーを記憶の中に少しでもとどめておこうと言う努力だ。
そうした観戦のその先に「記録」というものがある。
私にとって「記録」は、私が見逃したプレーも含めた選手の個々のプレーの集積であり、野球選手と言うクリエイティブの「ディスコグラフィ」や「フィルモグラフィ」のようなものである。
例えばイチローのキャリアSTATS
興味のない人から見れば、単なる数字の羅列のように見えるかもしれないが、この表には、イチローと言う不世出の選手の打撃のすべてが詰まっている。
無名の選手として入団したイチローは、3年目に突如ブレークし、以後7年間、NPBで最高の選手として活躍する。
7年連続首位打者を取っただけでなく、長打力もトップクラス。95年にはあと3本塁打で4冠王になるところだった。
イチローは最高出塁率を5回もとっている。NPB時代は打率の高さに加えて、四球も少なくはない選手だったのだ。
1999、2000年は20試合以上欠場。「これ以上NPBで数字を残しても意味はない」という倦怠感がこの数字からも漂ってくる。
しかしMLBに移籍すると、NPBとの格差によって、イチローの打撃は変質する。打率は一割程度下落、長打は2割も落ちた。
そんな中で、イチローは「安打を量産する」道を選択し、四球を選ぶことなく、多くの打席に立って一本でも多くの安打を打とうとした。
このスタイルを貫いたために、イチローは称賛とともに批判を浴び続けた。しかし、イチローはイチローであり続けた。
2011年から成績が急落、イチローは明らかに晩年を迎えている。彼が自分のスタイルを貫いたのは見事であり、その結果として「殿堂入り確実」な成績を積み上げたのは「偉業」というべきだろう。
キャリアSTATSにはそうしたイチローの野球人としてのすべてが詰まっているのだ。
私が、田中将大の移籍に関する楽天の対応を批判したり、巨人が井端、片岡と二人のレギュラー級の野手を同時に獲得するのを批判するのも「選手の方が球団よりも大事」という考え方があるからだ。
田中将大が、次のステージへ移るべき時が来ているのは、衆目の一致するところだ。その田中が、楽天球団の「事情」によって、将来展望を摘まれとすれば、残念で仕方がない。
「選手は球団に所属するのだから、球団の言うことを聞くべきだ」と言うかも知れないが、彼らは才能一本、腕一本で世渡りをしている「才人」でもあるのだ。彼らの才能は我々ファンの共有物であり、ちまちましたチーム事情で発展を妨げられるものではない。
井端の例でいえば、多くの人が「井端は二塁だけでなく、遊撃の坂本の控えにもなる。両方の控え選手として獲得したのだ」という。井端もそれを納得して契約したのだろうが、1807安打も打ってきた名選手が、確たる衰えもないのに控えに甘んじようとするのが残念でならない。「巨人」というブランドは特別なのかもしれないが、野球選手のキャリアを考えるなら、井端はレギュラーで出場する可能性のある球団に行ってほしかったと思う。
「チームの勝利のために選手のキャリアを犠牲にするのは、当然の話ではないか」と言われるかもしれないが、私はそうは思わない。
それは「企業社会」と言われる日本でしか通用しない考え方だと思う。
日本の企業では社員は、会社の業績のためにすべてを投げうつ。休日出勤、残業、転勤。個々の人生は企業の都合で大きく捻じ曲げられる。
それでも社員は会社に感謝し、忠誠を誓う。会社が左前になってリストラを喰らうときでさえ
「助けてもらった会社の恩義に報いるために辞めてくれ」といわれて身を引いた人さえいると言う。
北朝鮮みたいだ、と言うのは言い過ぎだろうが、サラリーマン生活をやめた私のような人間からは、かなり異様に思える。
江戸時代の大名、藩に仕える侍と何ら変わりがない倫理観、価値観が21世紀の今もまかり通っている。
そういう日本社会では「選手より球団」という考え方は理解されやすいのだと思う。
しかし、野球選手は「社員」ではない。才能だけで世渡りをする「個人事業主」だ。契約によって縛られている身ではあるにせよ、自らの才能を十二分に発揮するために、活躍のステージを選ぶ権利がある。
私はそれを理解し、彼らの能力が最大限に発揮されるのを見たい。それがキャリアSTATSに刻み込まれるのを見たい。
MLBでもチームオーダーは存在する。しかしそれは短期間だ。
シーズン中に控えや代打などに回る選手は常に存在する。しかし多くの選手はそれに不満を持って翌シーズンにはさらなる出場機会を求めて移籍する。チームもそれに理解を示す。
日本のように「控え」「当て馬」「捨て駒」人生を送るような選手は少ない。ことに偉大な実績を持つ選手が出場機会の減少を甘受することはあまりない。
日米の「職業観」の差異を反映しているようで興味深いが、MLBの考え方の方がスタンダードだろう。
日本では、野球のみならずチームの力が強すぎることで、選手は服従を強いられる。暴力沙汰やパワハラなども、そうした風土で生まれる。
私は選手が本来の能力を十分に発揮するのを見たい。その能力を結集させて勝ち進む球団を讃えたい。あたらレギュラー選手をチームのためと称して、デッドストックするような球団を支持しない。また球団の利益のために、選手の未来を犠牲にするような球団も応援しない。
もちろん、他の考えの方がいることは承知しているし、その考えは尊重するが、私は選手本位主義、「チームより選手」である。その考えは変えない。
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