1942年、昭和17年生まれ。今年で72歳。
80人の選手がプロ野球に出場した。この年も渋い顔ぶれだ。5番打者が多いように思う。

1942


野手。
末次利光は、巨人V9の一人。ONの後を打つ5番打者。1976年阪神戦の逆転満塁サヨナラ本塁打のラジオ中継は今も耳に残る。

児玉弘義は近鉄。辻佳紀の控え捕手だった。

森本潔は、加藤秀、長池の後ろを打つ阪急の5番打者。ひげ、眼鏡の三塁手だった。あまり他の選手と交流しない一匹狼と言われた。島谷金二とトレードで中日に行ったが活躍できなかった。

アーロン・ポインターも懐かしい。黒い霧事件の後の西鉄の4番。大阪球場では「犬が野球しとるで」と言われていた。

江藤省三は巨人、中日の代打。兄貴の江藤慎一と同じ顔だと思った。慶應大学の監督を務める。

永淵洋三、私が一番記憶にあるのは69年、張本勲と同率の.333で首位打者になったこと。この選手も土井正博の後の5番打者。「あぶさん」のモデルの一人。

船田和英は巨人、西鉄の時代は知らない。ヤクルトで渋い活躍の内野手だった。三塁を守って2番か5、6番を打った。

伊藤勲は大洋の捕手。松原誠の後の5番打者。福島久晃と併用された強打の捕手。晩年は野村克也が去った後の南海にやってきた。故人。

辻恭彦も大洋の捕手。丸い体形で「ダンプ」と言われた。元は阪神で、辻佳紀とのトレードで大洋に。「辻と辻をトレード」という新聞の見出しを覚えている。

そしてV9戦士の土井正三。長嶋茂雄の後輩。二塁手、6番が定位置。とにかくバントが巧みだった。監督になってからは「イチローを評価しなかった」という評判が立った。故人。

山口富士雄は阪急の内野手。大橋穣が東映から移籍すると出番が減ったのを覚えている。

シェーンは広島初優勝時の外野手。本当はシェーンブルームだった。ファイターで有名だったが、守備が下手で2年間でクビになった。



投手陣はさらに地味。

元旦生まれの板東里視は板東英二と同郷の投手。弱い頃の近鉄で投げた。後輩の清俊彦が引退し解説者になって「板東さん」と敬称つきで解説していたのを覚えている。

同じく元旦生まれの永易将之は西鉄、「黒い霧事件」の首謀者。選手名鑑のこの選手の顔写真を友人と塗りつぶしたのを覚えている。傷心のあまりではなく、遊びで。

高橋明は巨人の投手だが、「黒い霧事件」の後に西鉄に移籍してエース格。西鉄には外野に同姓同名の選手がいた。

合田栄蔵は南海で短期間活躍した投手。私はあまり記憶なし。

木原義隆はクラウンライター時代のアンダースローを覚えている。

佐藤進はヤクルトで一時期エース格。この選手も記憶なし。

徳久利明は鈴木啓示の前の近鉄のエース。記憶にないが、よく敗けた投手だ。この人も故人だ。

こうしてみると板東以外は短命に終わった投手が多い。

この年生まれには殿堂入り選手はいない。

MLBではトニー・ペレス、ファージ―・ジェンキンスが殿堂入り。バート・キャンパネリス、ジェリー・クーズマンもこの年生まれ。

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