私は鶴岡一人の現役時代を知らない。監督時代のこともおぼろげだ、解説者になってどすの利いた声で話していたのを覚えているのみだ。
ただ、野村克也を南海から追い出した男、ということで多少の恨みがましい気持ちを抱いていた。
必要があって、鶴岡一人の著書を読み、その考え方に触れていたのだが、その人柄を知れば知るほど、鶴岡は偉大な人間だということがわかってくる。
1968年、鶴岡は監督を辞して大阪毎日放送の解説者になったが、このときにこういう誓いを立てている。

「結果論は言わない」
「批評とは人を励ますことである」
「チームの財産である選手を傷つけない」


まさに、南海と言う強豪チームを20年以上にわたって率いた大監督ならではの言葉だ。
「選手を傷つけない」とは、批判すべきでないということではなく、選手の立場に理解を示し、愛情を持てと言うことだろう。
その解説は、面白いというものではなかったが、ズシリと重みがあった上に、幾ばくかの愛嬌も感じられた。

鶴岡は、このときにファンに対しても野球の見方をレクチャーしている。

① 自主性を持つこと
② 自分でスターを育てること
③ 勝利至上主義を捨てること
④ 真の高度プレーを理解すること
⑤ 監督の監督、つまり総監督の気分に浸ること


この5つを総括して鶴岡は「自主性を持つこと」と言っている。
これは、野球ファンに向けた非常に意義深い提言ではないか。

まず、誰かが応援しているから、周りがそうだから、ではなく、自分の意志としてある球団を選んでファンになれと言っている。付和雷同的だからと言ってそしりを受ける筋合いはないが、その方が良いと言っているのだ。

そして、そのときの人気者を追いかけるのではなく、選手の中から見どころのありそうな選手を見出し、その選手を応援すべきだと。「見る目を養え」ということだ。

さらに、勝った負けたで一喜一憂するのではなく、長い目でチームを応援すべきだと。
野球と言うのはボールゲームの中で最も多くの試合数を戦う競技だ。どんなに強いチームでも3回か4回に一度は負ける。そのたびに悲嘆にくれる必要はない。また、勝ったからと言って相手チームを罵倒する必要もない。
ペナントレースと言う長丁場を、ゆったりした気分で楽しめと言うことだ。

真の高度プレーとは難しいが、派手なプレーだけではなく、プロらしいプレー、よく考えられたプレーを見る「眼」を養えということだ。いわば「見巧者」になれということだろう。

そして総監督の立場とは、監督の選手起用や、采配などもプレーの一つとして理解し、楽しめと言うことだろう。
試合からこれだけのことを見出そうと思えば、必然的にスコアブックをつけることになりそうだ。

鶴岡の言う①から⑤までが実践できれば、そのまま野球解説者になれそうな気もするが。

鶴岡は南海ホークスを屈指の強豪チームに育て上げたが、任期の後半は弱体化が進んで苦労もした。
ファンからは心無いヤジも浴びせかけられたことだろう。そんな中で、こういう信条を持つにいたったのだろう。

昔の野球ファンは確かにこういうものだった。自分だけのごひいき選手を持ち、自分が良いと思ったところで拍手をし、勝っても負けても良いプレーは讃えたものだ。また、チームの作戦の批評もしたものだ。

こうした姿勢は、野球、選手に対するリスペクトの念が根底にあってのことだと思う。球場での主役は、選手であり、見るべきものは「野球の試合」だということだ。

またぞろ「今のファンの批判か」と言われそうだが、試合の間中何らかの音をたて続けている今のファンは、鶴岡の流儀は当てはまらない。
そういう応援の人たちが、トッププロたちのプレーのどの部分を見ているのか、はなはだ心もとない。
どんな楽しみ方をしようと勝手ではあるが、私は鶴岡親分のこの見識を、尊いものだと思う。



最近は、野村克也も鶴岡一人に対して感謝の言葉を述べている。今一度、鶴岡が遺した言葉に触れるべきだと思う。


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