高橋ユニオンズは、7チームで運営されていたパリーグの球団数を偶数にするために、設立された。永田雅一が旧知の財界人の高橋龍太郎を口説き落としたのだ。
本拠地は川崎球場。スポンサーはつかず、オーナーの名前を球団名とした。
チームには他のパリーグ球団から選手が拠出された。
しかし、楽天のケースと異なり、消滅した球団は無く、球団数が純増したため、各球団は本当に余剰の選手を拠出した。
1955年の打撃成績 左は前年に所属したチーム グレーはアマチュア

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39人の選手が試合に出場した。プロ球団からの移籍は毎日から8人、近鉄から2人、大映から2人、東急1人、南海3人、西鉄2人、阪急2人。セの松竹から1人の計23人。
アマチュアからの入団は13人。

浜崎勝は監督浜崎真二の息子。3番センターの黒田一博は、黒田博樹の父親。元は内野手。南海から移籍してきた。


この年の高橋は良くやったと言って良いだろう。1番河内から6番山田までの打線は繋がりがあり、荒っぽい打撃ながらも4番捕手のレッカは20本塁打を打った。

投手成績 えんじ色は左腕

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野村と滝が規定投球回数に達して二けた勝利を挙げた。スタルヒンは288勝をあげており、あと12勝で史上初の300勝。力は明らかに落ちていたが、ローテの3番手を担った。

優勝した西鉄ライオンズから37ゲーム離されたが、8球団中6位で終わった。
当時のパリーグには「勝率.350を割り込んだ球団は解散」という無茶なルールがあったが、.387でこれもクリアした。


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