1945年10月25日まで、台湾は日本領であり、5つの州と3つの丁からなる日本の一部だった。
嘉義市は台湾中南部、西岸の中心都市。
戦前、この嘉義市に嘉義農林という学校があった。日本統治下の1919年に設立された公立校。日本内地の中等学校に相当し、農林業の指導者を育成するエリート校だった。今は国立嘉義大学となっている。

嘉義農林校は、愛媛県出身の近藤兵太郎の指導によって野球強豪校となり、1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会に出場した。

2回戦  嘉義農林3-0神奈川商工
準々決勝 嘉儀農林19-7札幌商
準決勝  嘉儀農林19-7札幌商
決勝   中京商4-0嘉義農林

嘉義農林は外地初の甲子園栄冠を目指したが、岡田源三郎率いる中京商業の好投手吉田正男の前に敗れ去った。嘉義農林のエースは呉明捷。チームは日本人、漢人、原住民の混成。
判官びいきの日本人の多くは、嘉義農林に大声援を送った。

今年台湾で封切られた「KANO」は、このときの嘉義農林の奮闘を描いた映画だ。

Kano


台湾ではすでに封切られ、好評を博した。3/7の第9回「大阪アジアン映画祭」ではオープニング作品として公開されたが、まだ日本での公開予定は発表されていない。

私は昨年、2回台湾で野球を見ている。台湾のプロ野球の歴史は浅く、応援もけたたましくて深みに欠けるきらいがあるが、みんな野球が好きで、野球場に来るのが大好きなことが感じられる。
台湾という国は中国や韓国に比べてはるかに人懐こい。
昨年11月のアジアシリーズの期間、私は台中市内を自転車で走り回ったが、野球が終わった後の深夜の街でもほとんど危険を感じることはなかった。安心で落ち着いた国だ、と思ったものだ。

その台湾で、80年以上前に繰り広げられた野球のドラマはどんなものだったか、見てみたいと強く思う。

公式ページの予告編を見る限り、大鉄傘と言われた甲子園球場や、当時の野球シーンが丁寧に描かれている。「野球の匂い」がする映画だと思う。

嘉義農林はこの1931年を契機として野球強豪校になり、甲子園に春夏合わせて5度出場。5勝5敗の戦績を上げた。
甲子園の主要メンバー。

5


また6人がNPBで記録を残している。

Kano2


殿堂入りした呉昌征は、春夏合わせて4度甲子園に出場。19打数4安打を記録、また投手として2試合に投げて1敗。
職業野球に身を投じて、巨人、阪神、毎日で活躍。俊足好打の外野手。投手としても15勝を挙げている。1987年没、95年殿堂入り。

今久留主淳と功は兄弟。日本人。兄の淳(すなお)は、甲子園に3度出場し14打数5安打。戦後、別府星野組を経て毎日、西鉄で内野手として活躍。その後はスコアラー、スカウトに転じた。1986年没。
弟の功は甲子園に出場せず。別府星野組を経て毎日、近鉄で内野手として活躍。こちらもスコアラー、スカウトとなり2005年に没した。

奥田元も日本人。甲子園では7打数無安打。栃木出身。立教大、山藤商店、古沢建設を経て毎日、近鉄でプレーした内野手。この選手も俊足で1イニング3盗塁を記録している。

柴田繁雄は甲子園には出ず。終戦直後のセネタース、東急でプレーした外野手。

呉新亨も甲子園には出ず。43年に大和軍に入団。翌年巨人に転じ、44年に盗塁王に。48年以降は萩原寛と名乗る。俊足の外野手だった。後に審判となり97年に引退している。

31年のエース吳明捷は、1911年生まれ。31年の甲子園では17打数7安打、4試合35回を一人で投げて13失点。3勝1敗。
早稲田大学に進み36年の首位打者.333、また長嶋茂雄に破られるまでの通算本塁打記録「7」の保持者にもなった。職業野球には進まなかった。1983年没。
早大時代の成績。

Kano3


この映画を見て「日本が植民地に良いこともした証拠だ」と言いたい人はたくさんいるだろうが、そういう政治的な見方をするのは間違っているだろう。
どんな状況であれ、植民地は不幸な状態だったはずだ。

「野球」という言葉や国境を超えて共有できる「スポーツ文化」の素晴らしさを味わうのが本筋だろう。


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