松井秀喜は「日本人」そのものだと思う。その風貌をアメリカの地でくっきりと浮かび上がらせた。
キャリアSTATS
①豪打
松井秀喜の野球は「打」だけだと思う。NPB時代にゴールドグラブを取ってはいるが、それは守備がうまかったからではなく、強打のご褒美だろう。
しかしその打撃は、恐らく日本人最強だ。
1988年の東京ドームの開設以来、NPBの球場はONの時代より約10m外野フェンスが遠くなったが、それ以後、昭和の大打者にそん色ない打撃を見せた日本人は松井秀喜だけだ(中村剛也を除き)。まず、その数字が偉大だ。
松井の本塁打は、一瞬、バットにボールが貼りつくように見える。ボールがバットを離れた刹那、ボールはぐんと速さを増してはるか遠くに飛んでいくのだ。恐らくボールにスピンがかかっているのだろう。
イチローの快打には何通りもの形があったが、松井は一つだけだった。ツボにはまった球を、きっちりと料理する。それだけだったと思う。
バットスイングは凄まじかった。MLBにはウラディミール・ゲレーロや、ゲイリー・シェフィールドなど、目にも止まらないバットスイングをする選手がいたが、松井のスイングも負けていなかった。
②勇気
ヤンキースに入団した時の映像を見て思ったのは、「松井は体では負けていない」ということだ。193cmのデレク・ジーター、190cmのジェイソン・ジアンビらと並んでも188cmの松井は引けを取らなかった。か細く、小さく見えたイチローとは違っていた。
しかしNYYで松井は大きな挫折を味わったはずだ。日本では並ぶもののないパワーヒッターだった松井を、多くのチームメイトは、はるかに上回っていた。
翌年、チームメイトになったアレックス・ロドリゲスは、まるでゴルフの打ちっぱなしのように軽々とスタンドへ放り込んだ。これを見て、松井は「とてもかなわない」と本音を漏らした。
松井秀喜は、かなり早い時期に「自分は、MLBでは飛びぬけた存在ではない」ことを知ったはずだ。しかもイチローのように「ニッチ」なポジションを襲うわけにはいかない。“本物の”スラッガーと正面から競争しなければならない。逃げて帰りたいと思ってもおかしくはなかった。
松井より1歳年長の中村紀洋が、結果的に1年未満で日本に帰ったのは、そうした「絶望感」を持ったからかもしれない。
しかし松井秀喜はそうした環境で、10年もの間、堂々と戦って見せた。その数字は物足りないかもしれないが、野球文化、風土において大きく異なる日本で育った選手として、ほぼ限界と思える記録を残した。他の日本人がこんな成績を残すことは、当面ないだろう。
松井はNPB、MLBでともに10年プレーしている。両球界での試合数はほぼ同じ。2つの数字を比較すれば、NPBとMLBの「落差」がはっきりとわかる。
彼は、日本とアメリカ、彼我の違いを我々に身を以て教えてくれたと思う。
日本に帰れば第一人者の座が待っていたにもかかわらず、逃げずに戦い続けた、その勇気を讃えたい。
③自分でコントロールできないことは悩まない
松井秀喜は2006年、マーク・ロレッタのフライをスライディングキャッチしようとして左手首を故障した。松井の守備と言えば、このシーンしか浮かばないほど強烈な映像だった。手首が反対側にねじ曲がるような重傷。連続出場記録は途切れ、松井の前途に暗雲が垂れ込めた。
しかし、松井はその境遇を悲嘆することなく。淡々とリハビリをし、復帰へ向けて努力を重ねた。
翌年出版された『不動心』には
「コントロールできることとできないことを分ける、自分でコントロールできないことは悩まない」という信条が紹介されていた。
本自体は面白い内容ではなかったが、そのシンプルな信条に、松井の潔さ、心映えの美しさが表れている。
翌年には、膝を故障。松井は満身創痍になっていく。成績も悪化していくが、松井秀喜の野球人生はここから陰影を深め、味わい深くなっていく。
派手な言動は一切しない松井だが、節目節目で印象的な活躍をしている。
ヤンキース本拠地デビュー戦での満塁本塁打、手首の怪我からの復帰戦での4打数4安打、2009年ワールドシリーズでの活躍、エンゼルスに移籍した開幕戦での一発、タンパベイ・レイズでのデビュー戦の一発。
こうした活躍は「コントロールできる場面での努力」の集積なのだろうと思えた。
松井には、見る人を自然にファン、応援者にしていくような不思議な魅力があった。これは彼の心映えが、外面に表れていたからだろう。
④懐かしさ
イチローと異なり、松井秀喜は高校生のときに、全国的なスターとなった。
「ゴジラ」という愛称も冠され、一挙手一投足が注目の的となった。以後、ずっと松井はセレブになった。
しかし、松井は「俺ほどの人なのだから」という類の気位の高さは持ち合わせていなかった。衒わず、自意識過剰にもならず、ごく普通の「一般人」であるかのようにふるまい、淡々と野球をしてきた。
斎藤佑樹のような選手と比べるとき、松井の資質の高さが実感できる。
ファンには親切、不躾なマスコミにも誠実、そしてチームに忠実。
面白みはないが、よくできた人物ではあった。
派手な言辞は弄しない。黙々と仕事をするだけ、その背中が雄弁に人物を語っていた。
私よりも年下ではあるが、私は松井秀喜に「昔の大人」を感じた。その質実な言動に何とも言えない「懐かしさ」を感じた。
ヤンキースを出てからの松井秀喜は「不甲斐ない」の一語だった。
出だしこそ良いものの、成績は低迷し、スランプはどんどん長くなった。ファンはそのことにやきもきしたが、松井本人は「コントロールできないこと」と表情を変えずに話した。
そして淡々とバットを擱いた。
大選手には「滅びの美学」があるが、松井のそれは、長年勤めあげた職業人が定年を迎えるような静かで、穏やかなものだった。
そのいかにも松井秀喜らしいエンディングも、懐かしい。
みなさんの「松井秀喜」「他の選手」への思い、コメントにお寄せください。数がまとまったら記事にします
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①豪打
松井秀喜の野球は「打」だけだと思う。NPB時代にゴールドグラブを取ってはいるが、それは守備がうまかったからではなく、強打のご褒美だろう。
しかしその打撃は、恐らく日本人最強だ。
1988年の東京ドームの開設以来、NPBの球場はONの時代より約10m外野フェンスが遠くなったが、それ以後、昭和の大打者にそん色ない打撃を見せた日本人は松井秀喜だけだ(中村剛也を除き)。まず、その数字が偉大だ。
松井の本塁打は、一瞬、バットにボールが貼りつくように見える。ボールがバットを離れた刹那、ボールはぐんと速さを増してはるか遠くに飛んでいくのだ。恐らくボールにスピンがかかっているのだろう。
イチローの快打には何通りもの形があったが、松井は一つだけだった。ツボにはまった球を、きっちりと料理する。それだけだったと思う。
バットスイングは凄まじかった。MLBにはウラディミール・ゲレーロや、ゲイリー・シェフィールドなど、目にも止まらないバットスイングをする選手がいたが、松井のスイングも負けていなかった。
②勇気
ヤンキースに入団した時の映像を見て思ったのは、「松井は体では負けていない」ということだ。193cmのデレク・ジーター、190cmのジェイソン・ジアンビらと並んでも188cmの松井は引けを取らなかった。か細く、小さく見えたイチローとは違っていた。
しかしNYYで松井は大きな挫折を味わったはずだ。日本では並ぶもののないパワーヒッターだった松井を、多くのチームメイトは、はるかに上回っていた。
翌年、チームメイトになったアレックス・ロドリゲスは、まるでゴルフの打ちっぱなしのように軽々とスタンドへ放り込んだ。これを見て、松井は「とてもかなわない」と本音を漏らした。
松井秀喜は、かなり早い時期に「自分は、MLBでは飛びぬけた存在ではない」ことを知ったはずだ。しかもイチローのように「ニッチ」なポジションを襲うわけにはいかない。“本物の”スラッガーと正面から競争しなければならない。逃げて帰りたいと思ってもおかしくはなかった。
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しかし松井秀喜はそうした環境で、10年もの間、堂々と戦って見せた。その数字は物足りないかもしれないが、野球文化、風土において大きく異なる日本で育った選手として、ほぼ限界と思える記録を残した。他の日本人がこんな成績を残すことは、当面ないだろう。
松井はNPB、MLBでともに10年プレーしている。両球界での試合数はほぼ同じ。2つの数字を比較すれば、NPBとMLBの「落差」がはっきりとわかる。
彼は、日本とアメリカ、彼我の違いを我々に身を以て教えてくれたと思う。
日本に帰れば第一人者の座が待っていたにもかかわらず、逃げずに戦い続けた、その勇気を讃えたい。
③自分でコントロールできないことは悩まない
松井秀喜は2006年、マーク・ロレッタのフライをスライディングキャッチしようとして左手首を故障した。松井の守備と言えば、このシーンしか浮かばないほど強烈な映像だった。手首が反対側にねじ曲がるような重傷。連続出場記録は途切れ、松井の前途に暗雲が垂れ込めた。
しかし、松井はその境遇を悲嘆することなく。淡々とリハビリをし、復帰へ向けて努力を重ねた。
翌年出版された『不動心』には
「コントロールできることとできないことを分ける、自分でコントロールできないことは悩まない」という信条が紹介されていた。
本自体は面白い内容ではなかったが、そのシンプルな信条に、松井の潔さ、心映えの美しさが表れている。
翌年には、膝を故障。松井は満身創痍になっていく。成績も悪化していくが、松井秀喜の野球人生はここから陰影を深め、味わい深くなっていく。
派手な言動は一切しない松井だが、節目節目で印象的な活躍をしている。
ヤンキース本拠地デビュー戦での満塁本塁打、手首の怪我からの復帰戦での4打数4安打、2009年ワールドシリーズでの活躍、エンゼルスに移籍した開幕戦での一発、タンパベイ・レイズでのデビュー戦の一発。
こうした活躍は「コントロールできる場面での努力」の集積なのだろうと思えた。
松井には、見る人を自然にファン、応援者にしていくような不思議な魅力があった。これは彼の心映えが、外面に表れていたからだろう。
④懐かしさ
イチローと異なり、松井秀喜は高校生のときに、全国的なスターとなった。
「ゴジラ」という愛称も冠され、一挙手一投足が注目の的となった。以後、ずっと松井はセレブになった。
しかし、松井は「俺ほどの人なのだから」という類の気位の高さは持ち合わせていなかった。衒わず、自意識過剰にもならず、ごく普通の「一般人」であるかのようにふるまい、淡々と野球をしてきた。
斎藤佑樹のような選手と比べるとき、松井の資質の高さが実感できる。
ファンには親切、不躾なマスコミにも誠実、そしてチームに忠実。
面白みはないが、よくできた人物ではあった。
派手な言辞は弄しない。黙々と仕事をするだけ、その背中が雄弁に人物を語っていた。
私よりも年下ではあるが、私は松井秀喜に「昔の大人」を感じた。その質実な言動に何とも言えない「懐かしさ」を感じた。
ヤンキースを出てからの松井秀喜は「不甲斐ない」の一語だった。
出だしこそ良いものの、成績は低迷し、スランプはどんどん長くなった。ファンはそのことにやきもきしたが、松井本人は「コントロールできないこと」と表情を変えずに話した。
そして淡々とバットを擱いた。
大選手には「滅びの美学」があるが、松井のそれは、長年勤めあげた職業人が定年を迎えるような静かで、穏やかなものだった。
そのいかにも松井秀喜らしいエンディングも、懐かしい。
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甲子園での5敬遠で有名ですが、その試合で最も印象に残ったシーンgあります。九回2死から星稜の3番打者が三塁打。次の松井は敬遠されましたが、全く不満そうな態度を見せずに出塁し、直後にもの凄い形相で二盗に成功。堂々とユニホームについた砂を払い、5番打者に「打ってくれよ」という視線を送っていました。
自分のコントロールできないことには惑わされず、コントロールできることに全力を尽くすというポリシーを、18歳にして既に持っていたことを象徴する場面だったと思います。
素晴らしい選手でした。