えらそうに野球のブログなんて書いているから、野球選手との出会いも大層なものだと思われるかもしれないが、野村克也との出会いは実に他愛のないものだった。
①なれそめ
1968年、小学校3年の春、クラスで一番小さかった私の隣の席に転校生が座った。彼は野村和也といった。大工の家の子だった。彼は「野村克也と一字違いや」と言った。私はそのときその野球選手を知らなかった。野村君は、そんな私に野村克也の凄さを滔々と語った。
確かこの年だったと思うが、4月の学習雑誌「学習」に、野村克也の物語が載った。テスト生で入って、鶴岡監督に認められ、スター選手になるまでが紹介されていた。
物語では、南海の入団テストの前にテストを受ける選手にカレーが出る。野村は“大きなジャガイモをごくりと吞み込みながら「負けるわけにはいかん」とつぶやくのだ。
私は家でカレーが出たときに、野村と同じようにやろうとしてジャガイモを呑みこんで喉を詰まらせた。「野村はやっぱりすごい」と妙に感心したのを覚えている。
未だにカレーを食べるときに、そのことをちらっと思い出す。
余談だが、この当時の学研の「科学と学習」には、のちに作家として名を成す人がたくさん執筆していた。畑正憲の「海辺の生き物」なんか、未だにその文章の一説を覚えている。立派な書き手が子どものために一生懸命書いていたのだ。「野村克也物語」の作者は誰だったか知らないが、相当の書き手ではなかったか。
それ以来、野村克也を追いかけるようになった。
当時の一般紙では、パリーグの話題はセリーグよりも小さかった。野村の活躍は、ボックススコアで見るしかなかった。
毎日それを追いかけるうちボックススコアの見方が分かるようになった。また当時はそこに通算打率は書かれていなかった。打撃30傑の表が載ることもあったが、スペースがないときは載らなかった。私は覚えたての割り算で、毎日野村の打率を計算したものだ。
野村は70年に兼任監督になった。阪神の村山実と同じタイミングだった。
「そういうことができるのや」と思ったのを覚えている。
監督野村は、それほど優秀とは思えなかった。当時、巨人がV9を進行中であり、監督とは川上哲治のように冷徹な人だと言うイメージがあった(多分に「巨人の星」の影響だが)。
ただ野村は監督になってから「4番捕手野村」を動かさなくなった。
チームで成績が抜群のときは、それでもよかったが、成績が下がっても、野村は自分の位置を動かさなかった。
野球の成績が理解できるようになっていた私は「これはおかしいのではないか」と思うようになった。
1975年は打率.211、12本塁打、45打点。しかし野村は115試合が「4番捕手」、5試合が「4番DH」。高校生になった私は、そんな野村に少し嫌気がさした。
しかし1977年に起こった「野村追放劇」は、大きなショックだった。子どもから大人になる過程の9年間、ずっと応援していた選手が、チームを追われたのだ。
しかもそれは女性スキャンダルがらみ。大切なものを汚されたような気がした。
大げさでなく「人生の半分くらいの楽しみ」を奪われたような気がしたものだ。
キャリアSTATS

②スイング
野村克也を初めて生で見たのは、71年頃だったと思う。それ以後数回大阪球場で観戦したが、頻繁に野村を見るようになったのは、高校生になって一人で大阪球場へ行くことができるようになってからだ。
何度か書いたが、球場の入り口にモスグリーンのリンカーンコンチネンタルが停まっていると「ノムさんいるな」と思ったものだ。
野村はネクストバッターズサークルで、必ず大きな素振りをする。本当に「ブルン!」という音が聞こえてきそうな凄い素振り。
弟子にあたる柏原純一が「あんな凄い素振りは見たことがない」と言っていたが、他の選手の素振りが単に「棒を振っている」のだとすると、野村は「ハンマーを振り回している」ような違いがあった。
今の言い方をすれば「慣性モメント」を目いっぱい利かせていると言うことになろうか。
恐らく、あの素振りは、投手への威圧だったのだろう。
右打席に入り、バットを構える。のっそりして、あまりやる気がなさそうな雰囲気。
若い頃はバットのヘッドを投手の側に傾がせて、力感のあるフォームだったようだが、私が見た頃は、グリップを胸の下方あたりに構えて、ゆらゆらとバットを揺らしていた。そして膝でタイミングを取っていた。
バットを揺らしていたのは、手首を柔らかくしようと言う意識ではなかったか。
今、中村剛也の打席の動作を見ていると、野村克也をちらっと思い出す。
変化球の曲り際をうまくとらえて左翼席に運ぶのがうまかった。大阪球場の左翼は90m無かったと言われるが、その中断あたりによく持って行った。
かと思えば、軽打もできた。外角の球を右に運ぶのも見たことがある。
オールスターと言えば、野村克也をテレビで見ることができる数少ない機会だった。
1972年の第一戦、全パの4番に座った野村は阪神の谷村智啓のアウトコースの球を右翼線に流し打ってタイムリー二塁打を打った。福本豊と張本勲が帰ってきた。
打球は鋭かった。野村は短い脚を互い違いに動かして懸命に走ったが、本当に遅かった。いい当たりだったにもかかわらず、二塁でアウトになりそうだった。
次の打席では今度は同じ谷村から思い切って引っ張って2ラン。張本にホームで迎えられた。今から思うとそれは東京球場。左翼は大阪球場より短かったのではないか。しかし、ONなどセリーグのスターを前にして、素晴らしい活躍だった。
野村を一番よく見たのは75年だろう。この年山口高志がデビュー。阪急ファンの友人が二人いて、大阪球場へよく行ったのだ。
三塁側の内野席上段や、バックネット裏で、山口の投球をよく見た。
この投手は改めて書きたいが、本当に「どうりゃー!」と声がしそうな投球で、大変な勢いで球がミットに叩きつけられた。
南海の打者には絶対打てそうにないと思ったのだが、40歳になろうとしていた野村は、シーズン当初、この山口にめっぽう強かった。
4/22(大阪球場)4打数2安打、5/11(西宮球場)4打数3安打1本塁打2打点。
私は友人に鼻が高かった。山口の配球を読んでいたのだろう。
しかしシーズンが深まると全く打てなくなった。
6/11(大阪球場)3打数無安打1四球、7月17日(大阪球場)1打数0安打(山口は救援)、8月14日(西京極球場)1打数無安打(山口は救援)、9月7日(大阪球場)4打数無安打。
山口が投じるホップする速球に、野村のバットは力なく空を切った。
小細工をするのではなく、力押しに押せばベテランは黙る、と言うことを知ったのかもしれない。この年の野村は夏以降、故障もあって成績が急落。万全ではなかったのだろう。私も沈黙した。
この秋、初優勝した広島と阪急の日本シリーズで、広島の打者は山口高志に全く手が出なかったが「野村克也でも打てんのに、打てるはずがない」と思ったものだ。
南海を追われてからの野村は、私はあまり見たいとは思わなかった。
ロッテに入団が発表されると、レギュラー捕手だった村上公康が引退を表明。それだけ大きな存在だったのだと実感した。
③その後
現役時代の野村については、もっと書けるが、引退後の野村克也についてはあまり感慨がない。
野村は「しゃべくり戦術」で打者を惑乱したと言うから、もともと饒舌な人だったのだろう。
「智将」「謀将」「野球の師」。失意のうちに南海を去った野村が、野球人として最高のステイタスに上ったのは同慶の至りだが、率直に言って興味がない。
私にとっての野村克也は、大阪球場で緑のユニフォームに身を包んだ、丸っこい体のスラッガーだ。
ただ、最近「週刊ベースボール」でのコラムは、心静かに読むことができる。いろいろなところで何度も語ったことかもしれないが、昭和の、大昔の、人の来ない球場での、黙々とした努力の軌跡は、60年の歳月を経て、大切なことのように思えるようになった。
今日の午後10:10~午後11:20、J-SPORTSの「野球好きプラス」に野村克也が出演、配球論について語る。
私も少しだけお手伝いをさせていただいた。楽しみに見たい。

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。「野村克也」「他の選手」について、ぜひコメントもお寄せください!
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1968年、小学校3年の春、クラスで一番小さかった私の隣の席に転校生が座った。彼は野村和也といった。大工の家の子だった。彼は「野村克也と一字違いや」と言った。私はそのときその野球選手を知らなかった。野村君は、そんな私に野村克也の凄さを滔々と語った。
確かこの年だったと思うが、4月の学習雑誌「学習」に、野村克也の物語が載った。テスト生で入って、鶴岡監督に認められ、スター選手になるまでが紹介されていた。
物語では、南海の入団テストの前にテストを受ける選手にカレーが出る。野村は“大きなジャガイモをごくりと吞み込みながら「負けるわけにはいかん」とつぶやくのだ。
私は家でカレーが出たときに、野村と同じようにやろうとしてジャガイモを呑みこんで喉を詰まらせた。「野村はやっぱりすごい」と妙に感心したのを覚えている。
未だにカレーを食べるときに、そのことをちらっと思い出す。
余談だが、この当時の学研の「科学と学習」には、のちに作家として名を成す人がたくさん執筆していた。畑正憲の「海辺の生き物」なんか、未だにその文章の一説を覚えている。立派な書き手が子どものために一生懸命書いていたのだ。「野村克也物語」の作者は誰だったか知らないが、相当の書き手ではなかったか。
それ以来、野村克也を追いかけるようになった。
当時の一般紙では、パリーグの話題はセリーグよりも小さかった。野村の活躍は、ボックススコアで見るしかなかった。
毎日それを追いかけるうちボックススコアの見方が分かるようになった。また当時はそこに通算打率は書かれていなかった。打撃30傑の表が載ることもあったが、スペースがないときは載らなかった。私は覚えたての割り算で、毎日野村の打率を計算したものだ。
野村は70年に兼任監督になった。阪神の村山実と同じタイミングだった。
「そういうことができるのや」と思ったのを覚えている。
監督野村は、それほど優秀とは思えなかった。当時、巨人がV9を進行中であり、監督とは川上哲治のように冷徹な人だと言うイメージがあった(多分に「巨人の星」の影響だが)。
ただ野村は監督になってから「4番捕手野村」を動かさなくなった。
チームで成績が抜群のときは、それでもよかったが、成績が下がっても、野村は自分の位置を動かさなかった。
野球の成績が理解できるようになっていた私は「これはおかしいのではないか」と思うようになった。
1975年は打率.211、12本塁打、45打点。しかし野村は115試合が「4番捕手」、5試合が「4番DH」。高校生になった私は、そんな野村に少し嫌気がさした。
しかし1977年に起こった「野村追放劇」は、大きなショックだった。子どもから大人になる過程の9年間、ずっと応援していた選手が、チームを追われたのだ。
しかもそれは女性スキャンダルがらみ。大切なものを汚されたような気がした。
大げさでなく「人生の半分くらいの楽しみ」を奪われたような気がしたものだ。
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②スイング
野村克也を初めて生で見たのは、71年頃だったと思う。それ以後数回大阪球場で観戦したが、頻繁に野村を見るようになったのは、高校生になって一人で大阪球場へ行くことができるようになってからだ。
何度か書いたが、球場の入り口にモスグリーンのリンカーンコンチネンタルが停まっていると「ノムさんいるな」と思ったものだ。
野村はネクストバッターズサークルで、必ず大きな素振りをする。本当に「ブルン!」という音が聞こえてきそうな凄い素振り。
弟子にあたる柏原純一が「あんな凄い素振りは見たことがない」と言っていたが、他の選手の素振りが単に「棒を振っている」のだとすると、野村は「ハンマーを振り回している」ような違いがあった。
今の言い方をすれば「慣性モメント」を目いっぱい利かせていると言うことになろうか。
恐らく、あの素振りは、投手への威圧だったのだろう。
右打席に入り、バットを構える。のっそりして、あまりやる気がなさそうな雰囲気。
若い頃はバットのヘッドを投手の側に傾がせて、力感のあるフォームだったようだが、私が見た頃は、グリップを胸の下方あたりに構えて、ゆらゆらとバットを揺らしていた。そして膝でタイミングを取っていた。
バットを揺らしていたのは、手首を柔らかくしようと言う意識ではなかったか。
今、中村剛也の打席の動作を見ていると、野村克也をちらっと思い出す。
変化球の曲り際をうまくとらえて左翼席に運ぶのがうまかった。大阪球場の左翼は90m無かったと言われるが、その中断あたりによく持って行った。
かと思えば、軽打もできた。外角の球を右に運ぶのも見たことがある。
オールスターと言えば、野村克也をテレビで見ることができる数少ない機会だった。
1972年の第一戦、全パの4番に座った野村は阪神の谷村智啓のアウトコースの球を右翼線に流し打ってタイムリー二塁打を打った。福本豊と張本勲が帰ってきた。
打球は鋭かった。野村は短い脚を互い違いに動かして懸命に走ったが、本当に遅かった。いい当たりだったにもかかわらず、二塁でアウトになりそうだった。
次の打席では今度は同じ谷村から思い切って引っ張って2ラン。張本にホームで迎えられた。今から思うとそれは東京球場。左翼は大阪球場より短かったのではないか。しかし、ONなどセリーグのスターを前にして、素晴らしい活躍だった。
野村を一番よく見たのは75年だろう。この年山口高志がデビュー。阪急ファンの友人が二人いて、大阪球場へよく行ったのだ。
三塁側の内野席上段や、バックネット裏で、山口の投球をよく見た。
この投手は改めて書きたいが、本当に「どうりゃー!」と声がしそうな投球で、大変な勢いで球がミットに叩きつけられた。
南海の打者には絶対打てそうにないと思ったのだが、40歳になろうとしていた野村は、シーズン当初、この山口にめっぽう強かった。
4/22(大阪球場)4打数2安打、5/11(西宮球場)4打数3安打1本塁打2打点。
私は友人に鼻が高かった。山口の配球を読んでいたのだろう。
しかしシーズンが深まると全く打てなくなった。
6/11(大阪球場)3打数無安打1四球、7月17日(大阪球場)1打数0安打(山口は救援)、8月14日(西京極球場)1打数無安打(山口は救援)、9月7日(大阪球場)4打数無安打。
山口が投じるホップする速球に、野村のバットは力なく空を切った。
小細工をするのではなく、力押しに押せばベテランは黙る、と言うことを知ったのかもしれない。この年の野村は夏以降、故障もあって成績が急落。万全ではなかったのだろう。私も沈黙した。
この秋、初優勝した広島と阪急の日本シリーズで、広島の打者は山口高志に全く手が出なかったが「野村克也でも打てんのに、打てるはずがない」と思ったものだ。
南海を追われてからの野村は、私はあまり見たいとは思わなかった。
ロッテに入団が発表されると、レギュラー捕手だった村上公康が引退を表明。それだけ大きな存在だったのだと実感した。
③その後
現役時代の野村については、もっと書けるが、引退後の野村克也についてはあまり感慨がない。
野村は「しゃべくり戦術」で打者を惑乱したと言うから、もともと饒舌な人だったのだろう。
「智将」「謀将」「野球の師」。失意のうちに南海を去った野村が、野球人として最高のステイタスに上ったのは同慶の至りだが、率直に言って興味がない。
私にとっての野村克也は、大阪球場で緑のユニフォームに身を包んだ、丸っこい体のスラッガーだ。
ただ、最近「週刊ベースボール」でのコラムは、心静かに読むことができる。いろいろなところで何度も語ったことかもしれないが、昭和の、大昔の、人の来ない球場での、黙々とした努力の軌跡は、60年の歳月を経て、大切なことのように思えるようになった。
今日の午後10:10~午後11:20、J-SPORTSの「野球好きプラス」に野村克也が出演、配球論について語る。
私も少しだけお手伝いをさせていただいた。楽しみに見たい。

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