交流戦はある意味で、78年になるNPBリーグ戦の歴史に一線を画する施策だと言っても良い。
MLBのアナ両リーグが、草創期にはライバルであり、以後も反目していたのと同様、セパ両リーグもずっといがみあってきた。
2リーグ分立は1950年。「プロ野球の父」正力松太郎が、MLBにならってチーム数を増やし、市場拡大を目指して行った施策だ。
しかし、既存球団は既得権益を主張して球団数増加に抵抗した。最も強硬だったのは正力の膝元の巨人だ。正力は当時公職追放されていたため、讀賣新聞の経営にタッチしていなかったのだ。
すったもんだの末に2リーグ分立は決まったが、阪神が当初参加予定だったパリーグからセリーグに鞍替えし、これに怒ったパの毎日が阪神から主力選手を引き抜いた。また1年で立ち行かなくなったセリーグの西日本パイレーツが、パの西鉄と合併するに当たって巨人が、南村、平井と言う主力選手を強引に巨人に引き抜いた。
こうしたる引き抜き合戦が頻発、そのほとんどがリーグをまたがるものだったためにセパ両リーグはあたかも不倶戴天の仇のようになった。
オープン戦、日本シリーズとオールスター戦では対戦はするが、それ以外での対戦がない時代が54年間続いた。
1960年くらいまではセパの人気は拮抗していたが、巨人が自社メディアを利用して圧倒的な人気球団になるに伴って、セパの格差は広がる。
セリーグが、「巨人戦の放映権」というビジネスモデルを確立したのに対し、パリーグは西鉄ライオンズの低迷、黒い霧事件の勃発などによって信用を失墜。経営が立ち行かなくなって次々と経営母体が入れ替わった。
しかしこうした事態がプロ野球全体の危機と受け止められることは無く、セリーグはパリーグに救済の手を差し伸べなかった。
昭和は、「プロ野球の時代」と言って良い。ON、野村克也、張本勲、金田正一、稲尾和久、杉浦忠をはじめ、今の選手にはキャッチアップできない大記録を打ち立てた選手が次々と現れた。
彼らの活躍が、プロ野球のステイタスを確立させ、「ナショナルパスタイム」へと押し上げたのだ。
しかしながらセパの隔壁は極めて大きかったために、同時期に現役生活を送っても真剣勝負をしたことがない選手の組み合わせがいくつもあった。
金田正一と野村克也、張本勲、中西太、榎本喜八。
長嶋茂雄、王貞治と土橋正幸、鈴木啓示。
福本豊と木俣達彦、大矢明彦。
山本浩二、衣笠祥雄と村田兆次、東尾修、
江川卓と門田博光、石毛宏典
野茂英雄と原辰徳、古田敦也
イチローと斎藤雅樹、桑田真澄、三浦大輔、
松井秀喜と松坂大輔、伊良部秀樹
江藤慎一、豊田泰光、落合博満のようにリーグをまたいで移籍をしない限り、セパの主力選手の対戦はなかった。
日本シリーズやオールスターゲームでの対戦はあったが、それはレギュラーシーズンではなく、あくまでもエクストラだった。
NPBはMLBよりも選手の移籍が少なかっただけに、同時期であっても真剣勝負で見えたことがない組み合わせは非常に多かった。
私たちはそれが普通だと思っていたが、今から思えば、それは大きな機会損失だった。
交流戦によって、セパのトップクラスの選手の対戦が、遍く実現した。
ダルビッシュ有、田中将大と金本知憲、前田智徳、阿部慎之助
前田健太、内海哲也と中村剛也、中田翔、糸井嘉男
10年前まで不可能だった選手同士の勝負を我々は見ることができる。
しかも余興や短期決戦ではなく、レギュラーシーズンの数字を背負った「本気モード」で。
交流戦の歴史的意義は、これにつきる。
贔屓球団さえ勝てばよいというファンも多いようだが、野球の楽しみの本筋は「試合」であり、「個々の対戦」である。
交流戦の意義は、共存共栄を図るべきプロ野球が、偏狭なセクトイズム、あるいは権益保護主義によって設けていた隔壁を乗り越えて交流し、コンテンツを質量ともに押し広げたことに尽きると思う。
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稀少価値の提供という意味ではそんなに悪い数字ではないのでは。
何試合が最適なのかは難しいですが、増やしすぎてもじゃあ1リーグでいいじゃんとなりそうで。