「アンチ巨人」について書くためにいろいろ調べ物をして、巨人と他球団は、球団そのものも、ファンも全然違うという実感を持っている。
戦前の巨人は、まさに「正義の味方」だった。親会社、オーナーが機構の実質的なトップであり、リーグの適正な運営のために腐心しつつも球団を運営していたからだ。
36年にリーグが発足してから戦争が激しくなるまで、巨人の正力オーナーは財界人などに声をかけて、各都市に球団を設置しようと努力していた。
そのためには、適正な競争が必要だ。
その頃の巨人は、他球団がおかしな引き抜きをしたら叱るような立場にあったのだ。
戦前、行儀が悪かった球団の代表格は1938年に出来た南海軍だったかもしれない。
南海は別所昭を強引に引っ張ったし、他の選手にも法外な金額で契約しようとした。
48年の別所引き抜きは、その報復と言う面もあったのだ。
戦後、プロ野球はGHQが強く後押ししたこともあり、にわかに「成長産業」となった。
多くの企業が参入を求めるようになった。
正力は、既存の球団の利益を守りつつも、市場の拡大を目指した。
しかし、戦犯として公職追放の身分であった正力の足元、讀賣新聞から「既得権益保持」を主張する意見が出るなど紛糾し、結局「喧嘩別れ」の形でリーグはセパに分裂した。
実質的には当時、讀賣新聞より発行部数が多かった毎日新聞が参入したことで、球界は二つに割れたのだった。
正力はそうではなかったが、讀賣側は毎日新聞が怖かったのだ。
正力松太郎は善人でも正義の味方でもない。しかし彼は「讀賣新聞を大新聞社にする」と言う野心だけではなく、「プロ野球を巨大な娯楽産業にする」という野心も持っていたのだろう。だからリーグ全体の繁栄も考えていたと思われる。
当時の雑誌を読んでいると、1リーグ時代は試合の売り上げはいったん連盟側に入り、そこから一定分を連盟の収入として差し引いて、その残りを各球団に観客数に比例して応分に支払われていたことが分かる。
だから連盟は非常に強い権限があった。その実態は当時から讀賣が握っていたのだが、まだ成長途上の市場に会って、連盟は業界全体の適正な発展を目指していたのだろう。
しかし2リーグ分裂によって、どちらのリーグも好き勝手にビジネスをし始めた。1年目はオールスターもなかったし、日本シリーズも球場使用権をめぐって両リーグがいがみ合い、開催が危ぶまれたほどだ。
2リーグになってから各球団は興行収益をすべて自分たちの懐に入れるようになった。NPB機構は財政基盤を失った。
日本シリーズとオールスターの収益が新たにNPBの財源となったが、これまでの「分配してやる」立場から「お余りを頂戴する」立場に変わって、機構の力は一気に弱まったのだ。
プロ野球は58年の長嶋茂雄入団、59年の天覧試合で一気にブレークする。それは巨人の「一人勝ち」を伴ったものだった。
50年代までは、セリーグとパリーグは人気が拮抗していた。新聞のテレビ欄を見れば、日本テレビが巨人戦を放映し、他局が同時刻に「南海-西鉄戦」を流していたことがわかる。
しかし60年代に入ると巨人が人気でも興行収益でも他を圧倒する。そしてこの時期に讀賣新聞は毎日新聞を抜いて業界2位になるのだ。
この頃の毎日新聞は、優れた経営者がいなかったのだろう。新聞社自体も伸び悩んだし、毎日オリオンズ自体も低迷し、60年代半ばに球団を手放すのだ。
恐らくこのとき、讀賣新聞、巨人サイドは快哉を叫んだだろう。
V9時代に、巨人による「一党独裁」は完成した。
他局も含め、「プロ野球中継」と言えば「巨人戦」。
他局も含めた民放テレビやセリーグ球団は「讀賣」「巨人」に依存する体質が出来上がった。
巨人にしてみれば65年にドラフト制度の導入を許したのは、痛恨の一事だったと思われる。
これによってじわじわと戦力均衡が進み、一党独裁体制は崩壊するのである。
「金持ち喧嘩せず」で、大きなトラブルを起さなかった巨人が、いろいろなスキャンダルを起すようになるのは、この時期以降である。
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1972年堀内恒夫、全登板成績
広尾晃、3冊目の本が出ました。
>の一事だったと思われる。これによってじわじわと戦力均衡が進
>み、一党独裁体制は崩壊するのである。
ここの文章良いですね。
みなもと太郎氏のマンガ「風雲児たち」で書かれる、徳川幕府が崩
壊した理由は関ヶ原に遡る、って感じです。