「高3になったら、先生はほかの奴の受験指導で忙しいんや。お前がやる気を見せへんのやったら、ほっておくぞ」

三者面談。保護者であるところの私を前にして、愚息の担任はこう言い放ったのである。そのあまりにもあけすけな言葉に、何やら爽快感さえあった。昔の教師なら、もうちょっと言い様もあっただろう。しかし今どきの高校、しかも私学の教師ともなれば、ユーザーニーズに直線的に応えるためにも、こう言わざるを得なかったのだろう。平然としている愚息は少し偉いと思った。

世知辛い世の中、高校の3年間は「自分探し」とやらの悠長な時間ではない。「進学」そしてその先の「就職」に向けて逆算的にプランを立て、余計なものは極力排除してひた進む時間なのだ。そしてそれを全面的に支援するのが学校、教師たるものの責務だ。

この「進学」を「野球」に置き換えれば野球強豪校になる。




こないだの高校野球の準優勝校は、典型的な新興私学の“野球進学校”だ。伝統の浅い学校にとって校名を全国に知らしめ、生徒を集めるためには、甲子園での実績と有名選手の輩出は至上命題だ。本音でいえば、それ以外の要素はどうでもよい。その結果、素晴らしい実績をあげたはよいが、裏で不祥事がふつふつとわき出すということになる。

この学校の生活指導が厳しかったどうかは知らないが、「野球至上」の環境で生活する部員が「野球さえできりゃいいんだ」と思っても無理はない。「若い」という言葉は「一過性の馬鹿」と同義語だ。そして高校生は「性欲」という恐るべきエネルギーも秘めているのだから、はじけるような愚行をやらかすことになる。最近はtwitterなどという飛び道具があるから、ご丁寧にも自分の“馬鹿”を世界に発信することもできる。

こうして、この学校の校長室では、準優勝旗を前にして大人たちが頭を抱える事態が出来したのである。

頭を抱えているのは、高野連、主催新聞社も同様だろう。「ひたむきに、青春の汗を流す」はずの高校生が、居酒屋で中ジョッキをあおり、女子マネといちゃついていたのだ。怒髪天を衝く思いがしただろう。

高野連の大人たちは、「あってはならないこと」が起こって、高校野球の「歴史」「権威」は傷つけられたと感じたはずだ。しかしながら「前途ある若者」に「再起」のチャンスを与えるために(そして、今さら準優勝旗を返されても困るから)、今回も中途半端なお灸をすえて終わることになった。

日本人は、ひとたび「あってはならない」と規定されると、そこで思考停止する癖がある。「原発を飲み込むような津波は『あってはならない』」「大相撲の八百長は『あってはならない』」「高校球児の不祥事は『あってはならない』」。そして、「あってはならないことが起こったとき」の対応を、ほとんどしなくなる。それが、事故やスキャンダルの際限のない拡大をもたらすことになる。

高校球児の不祥事は、もはや夏の風物詩となっているが、その処分はいつも釈然としない。時代が大きく動く中で、高野連の年寄りが糊塗策にあたふたしている感じがする。また、ばれなければそれまでのことで、発覚したものだけがペナルティを受けている。

いまどきの高校生は、大人並みに飲食もするし、馬鹿もやる。そしてその馬鹿を世間に発信する(これが今の高校生の最大の特徴だが)。こういう愚行は「おこりうる」ことだ、と想定して、ルールをあらかじめ定めるべきではないだろうか。

たとえば、飲酒、喫煙などの違法行為に対しては、個人単位なら1か月の部活動停止。集団なら部の1か月の部活動停止。暴力に関しては1年の活動停止。そして毎年都道府県予選開始の45日前に、野球部のある各高校に調査票を配布する。自己申告をさせる形だ。申告書になくてあとで発覚した場合は、活動停止期間が倍になる。

「踏み絵のようだ」「純真な高校生の心を傷つける」という意見もあろうが、高校が「単目的化」しているなかで、明確なルールがあるほうが、教師も生徒も活動がしやすい。

「馬鹿の報い」は明らかな方が良いと思うのだ。


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