黒田博樹はNPBの歴史上稀有な存在だ。彼も、彼の父も、NPBでレギュラーを張ったことがある。そういう例は、極めてまれだ。

黒田博樹の父、黒田一博は長崎、佐世保の出身。八幡製鐵を経て1949年、南海ホークスに入団した。
キャリアSTATS

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外野手だが内野も守った。傑出した選手ではなかったが、堅実で鶴岡一人(当時山本姓)監督の信頼が厚かった。
1950年8月、県営富山球場で行われた大映スターズ戦、9回裏無死二三塁で中堅の黒田は打球を捕ったが、塁審はワンバウンドだと判定。これに対して山本監督が猛抗議をして放棄試合となったことがある。
その直後の野球雑誌の座談会で山本一人は「黒田が、ノーバウンドだとあれだけはっきり言うとるんだから、まちがいない」と語っている。黒田への信頼の厚さを感じさせる。

引退後、大阪市住之江区で運動具店「黒田スポーツ」を経営。60歳を過ぎてから鶴岡一人がはじめた硬式球による少年野球リーグ「オール住之江」を創設。
黒田博樹は、一博が50歳で授かった次男。父が興した「オール住之江」でプレーをし、上宮高校から専修大学に進んだ。

黒田一博はいわゆる「鶴岡人脈」に連なる一人であり、野球界の裏表を知悉した人間だった。
その子である黒田博樹は、地方の高校球児のようにプロに過大な憧れを抱くことはなかったはずだ。また、活躍しても舞い上がることもなかったはずだ。
自らの実力と、プロ野球のレベルを引き比べて、自身を冷静に値踏みする能力はあったはずだ。
逆指名2位で広島に入団。キャリアSTATS

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1年目からローテを守る。2年目、3年目と低迷したが、以後は投手陣の中心として活躍。
勝敗は別にして、常に課せられた仕事をしっかりとこなす堅実さを感じる。
派手さはないが、安定感があった。
「やるべきことをしっかりやる」というスタンスは、プロ選手だった父から受け継いだのではないか。

MLBでも2年目に不振に陥るが、それを克服し、以後はローテーションを維持してここまでやってきた。
見えてくるのは
自らを、環境に合わせて変革することができる「賢さと真面目さだ」
言い換えるならば「プロ意識」である。
松坂大輔のような「我執」は感じられない。
NPB時代のきれいな速球を封印し、2シーム(シンカー)とスライダー、スプリッターを交えた投球に変貌することができたのも、そうした「プロ意識」からだろう。

2006年、黒田はFA権を取得。広島は黒田に4年12億(+最大5000万円の出来高)を提示。しかもこの契約には、MLBへの移籍を認める条項もあった。
広島にしてみれば、最大限の誠意ではあっただろうが、それはこの球団の限界でもあった。
親会社の無い独立採算企業である広島東洋カープは、赤字決算はできない。FA選手に対して「去る者は追わず」のスタンスを堅持していた。

黒田は江藤智や金本智憲や、新井貴浩にようにセリーグの他球団には行かなかった。その点ではカープにとって「忠義の息子」だったかもしれない。黒田自身も「NPBにいる限り他球団には行かない」と表明し、それを守った。

まさに相思相愛ではあったが、それでも広島は「年俸が高騰して抱えきれなくなった選手は出ていってもらう」という自らの流儀を堅持した。
そして黒田は、新契約の2年目オフに、さらなる年俸を得るための唯一の手段だった「MLB移籍」を選択したのだ。
恐らくは2007年に父黒田一博が逝去したこともきっかけの一つではあっただろう。

広島東洋カープは、黒田博樹に対し、毎年3億円程度の金額を提示し「帰ってこないか」と言っていたと言う。
私はこれは大変失礼なことだと思っていた。広島は黒田との関係を『特別なもの』だと思っていた。だから律義者の黒田の足元を見て、あり得ない金額提示をしてきたのだ。
日本球界復帰の時が来た時に、黒田が他球団に行かないようにするための布石だったかもしれない。

ここで強調しておきたいのは、黒田は引き留める球団を振り切ってMLBに行ったわけではない。
「これ以上出せない」「わかりました」というやりとりがあって、彼は海を渡ったのだ。
いろいろ思入れはあるだろうが、結果的にはごく普通の移籍だったといってよい。

そこには「プロ野球選手の家の子」に生まれた黒田博樹の「プロ意識」があったに違いない。

次で最終回。

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