本棚を、ぼんやりと眺めていて、2冊の本に気が付いた。
1冊はこれ。

愛と幻想のベースボール

今はぴんとこないだろうが、タイトルは、村上龍の「愛と幻想のファシズム」のパロディだ。
現在は野球についてほとんど言及されない玉木正之さんだが、この本が出た1989年以前は、野球について活発に言論活動をしておられた。各紙に書いたコラムやエッセイなどを集めたものだ。

その本の中で玉木さんは、こんなことを言っている。
・順位予想みたいなつまらないことに、なぜ血道を上げるのか。各球団の戦力分析をするのは、詳しくチームを知ることで試合がより楽しく見ることができるからであって、どこが優勝するかは、大した問題ではない。

・評論家たちは一般の人に向かってなぜ「技術論」を語るのか。投手のひじの使い方を素人が知って、何になるのか。「あのひじの使い方が良い」ではなく、「あのひじの動きが美しい」と言うべきではないか。

審美学的な言い方かもしれないが、どこどこの熱狂的なファンや、野球関係者、選手でない限り、確かに「勝った負けた」や「技術」に拘泥する必要はないのだ。

音楽の評論で、「◎◎賞に一番近い」とか「あのギターのテクニックは、誰々とよく似ているがここが違う」みたいなことを延々と語ることはあり得ない。それは業界人や演者にしか必要ではないからだ。

どこが良いのか、どこが美しいのか、を語るのが評論だろう。

もう1冊の本



私は文庫ではなく、単行本で持っている。1984年の本。
草野進は、文芸誌でプロ野球批評をした異色の評論家。女性だと自称しているが、誰も姿を見たことがない。蓮見重彦あるいは澁澤龍彦の筆名ではないかと言われた。

この本は今のプロ野球ファンにはお勧めしない。
アマゾンに書かれた本の説明は、こんな風である。

オールスター戦9連続奪三振を目前に、微笑とともにカーブを投げる江川の慎み深さこそプロである。―過程よりも結果に執着するスポーツ紙、テレビ解説的言説に敢然と反逆し脚光を浴びた美人華道家、草野進が、今ここに〈プロ野球批評〉の開幕を宣言する。蓮実重彦、渡部直己、尾辻克彦、柄谷行人、糸井重里、立松和平ら、草野進とその支持者20余名による、革命的プロ野球評論書。

要するに、プロ野球選手のプレーの「何が美しいか」「誰が正しいか」を徹底的な主観で評論している。多くの作家や評論家が「面白がって」批評を寄せている。

草野は「江川卓は農村共同体に流謫したまれびとである」とし、西本聖とは次元が違う存在だとしている。
プレーだけでなく、顔の良し悪しや姿かたち、動きなども審美学的(なのだろう)に評論している。

柄谷行人は
「野球についての自閉的な言説が繁栄する一方で、野球そのものが忘れられてしまっている」
と書いた。

この手の本が出て、そういう言論が華やかだった30年前は、まだゆとりがあったのだなと思う。

データスタジアムの人と話していて、いつも思うのは
「このデータによって、より勝利に結びつく作戦が建てられます」「投手の次の配球がよくわかります」的な話はあるけれども、「このデータによって、より野球が面白くなります」的な話は殆どないということだ。
データ野球を楽しむ、という観点が、まだはっきりとは認識されていない(だから私のような部外者がモノを言う余地があるのだが)。

今、私は各球団の戦力分析をしている。また、選手のキャリアSTATSを紹介して、どんな選手だったかを評しているが、それは「どこが勝つか」「どっちが強いか」「どの選手が上か」を言うためではない。

そういう分析をすることが面白いからであり、そこからチームや選手の違った側面が見えたり、“人生”が浮かび上がったりするからだ。

「誰より誰の方が上」と言い募る愚かな人は論外だが、かんかんになって戦力分析をしたり、技術論を語る人も、「野球のことを語っていない」のだということは認識すべきだろう。

草野進はもう25年以上言論活動をしていない。玉木さんも同じくらい野球について語っていない。その間に、こうした野球批評は途絶えてしまった。
「野球のことを小難しく語って、自分の頭の良さをひけらかしたかっただけだろう」という意地の悪い批評もあった。

しかし、こうして野球のことを毎日ブログにしていて思うのは、「野球そのものの楽しさ」を語る言葉の少なさ、貧しさだ。
あんなに美しい姿をしたアスリートが、あんな凄い動きをしているのに、それをちゃんと見ることなく、「あいつ今年何勝しそうだ」と語っている。
そのことの空しさを、改めて心に留めたいと思った。




私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!




クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。
1975年川畑和人、全登板成績【わずか3試合の登板】



広尾晃、3冊目の本が出ました。