黒田一博は2リーグ分立期の南海ホークスの主力選手だった。
長崎県佐世保商、八幡製鐵を経て49年に南海に。
キャリアSTATS

2年目には6番三塁で正選手となる。翌年には外野にコンバートされる。当時としては大柄で、守備も俊敏。堅実な選手だった。
1950年8月14日、県営富山球場での大映スターズ戦の9回無死二三塁、黒田はライナー性の飛球を捕ったが、審判はこれをワンバウンドと判定。
これに山本一人監督が抗議、放棄試合となった。
当時の雑誌では、山本監督は「黒田君ははっきりノーバウンドで捕ったと言っている。間違いないでしょう」と言っている。黒田への信頼を感じさせる。
1953年、大映永田雅一に説き伏せられて「ビール王」高橋龍太郎は、パの8球団目になる高橋ユニオンズを設立。
セ・リーグはこれを黙殺したため、パの各球団から選手を供出することとなったが、当の永田雅一の大映がスタルヒン以外ろくに選手を出さない中で、南海はベテランの笠原和夫に加え、レギュラー外野手の黒田を供出した。
当時の野球誌は「外野手不足の南海が、黒田を出すことはないだろう」と書いたが、山本監督は黒田を高橋に出した。
黒田は新生高橋の主軸打者として活躍。3年目に大映スターズに移ってキャリアを終えた。
引退後、黒田は鶴岡(山本から改姓)一人が設立したボーイズリーグに参加し、大阪市住之江に「オール住之江」を設立。ここから息子の黒田博樹をはじめ、プロ選手を輩出した。
鶴岡一人の事跡を追いかけるとよくあることだが、鶴岡は南海から出た選手にも目をかけて、何くれとなく世話をしていた。黒田一博は、鶴岡一人と生涯つながりを持っていたものと思われる。
今、私は広島本の堀治喜さんの新刊のお手伝いをしているが、この話、結構深い。ここでは触れないが、黒田一博と言う野球人はもう少し注目しても良いと思う。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。
1974年鈴木啓示、全登板成績【西本近鉄での1年目】
広尾晃、3冊目の本が出ました。


キャリアSTATS

2年目には6番三塁で正選手となる。翌年には外野にコンバートされる。当時としては大柄で、守備も俊敏。堅実な選手だった。
1950年8月14日、県営富山球場での大映スターズ戦の9回無死二三塁、黒田はライナー性の飛球を捕ったが、審判はこれをワンバウンドと判定。
これに山本一人監督が抗議、放棄試合となった。
当時の雑誌では、山本監督は「黒田君ははっきりノーバウンドで捕ったと言っている。間違いないでしょう」と言っている。黒田への信頼を感じさせる。
1953年、大映永田雅一に説き伏せられて「ビール王」高橋龍太郎は、パの8球団目になる高橋ユニオンズを設立。
セ・リーグはこれを黙殺したため、パの各球団から選手を供出することとなったが、当の永田雅一の大映がスタルヒン以外ろくに選手を出さない中で、南海はベテランの笠原和夫に加え、レギュラー外野手の黒田を供出した。
当時の野球誌は「外野手不足の南海が、黒田を出すことはないだろう」と書いたが、山本監督は黒田を高橋に出した。
黒田は新生高橋の主軸打者として活躍。3年目に大映スターズに移ってキャリアを終えた。
引退後、黒田は鶴岡(山本から改姓)一人が設立したボーイズリーグに参加し、大阪市住之江に「オール住之江」を設立。ここから息子の黒田博樹をはじめ、プロ選手を輩出した。
鶴岡一人の事跡を追いかけるとよくあることだが、鶴岡は南海から出た選手にも目をかけて、何くれとなく世話をしていた。黒田一博は、鶴岡一人と生涯つながりを持っていたものと思われる。
今、私は広島本の堀治喜さんの新刊のお手伝いをしているが、この話、結構深い。ここでは触れないが、黒田一博と言う野球人はもう少し注目しても良いと思う。
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この通算成績を見れば、間違いなくプロ野球選手としても成功した方になり、かつ父子で揃って実績あげた唯一の日本人プロ野球選手親子だといえます。