私は商業ライターとして有名無名の人にインタビューをしてきた。
今も年に100人程度は話を聞いて文章を起している。ポイントは事実関係ではない。それは事前に調べている。それよりもいかに相手を乗せるか。いい言葉を引き出すか、である。そのためには、間をあけることなく質問をして、話を盛り上げていくことが肝要だ。話を聞きながら、メモを取りながら、次の質問を腹の中で用意する。そんな技術が必要になってくる。

数年前に、ある経済事件に関して新聞記者の取材を受けたことがあった。私はあまり関わりになりたくなかったから、適当に答える腹積もりだった。年若い記者氏はぽつぽつと話しかけるだけで、何かを待っているように間を空ける。しかし、私が口を開くとすかさず短く鋭い質問をする。ついつい言わずもがなのことまで口にしてしまう。なるほど、同じ取材と言ってもずいぶん違う。ジャーナリストは「こちらが喋りたくないこと」を吐き出させるのだな、人の秘密を盗んでいくのだな、と実感した。

メディアがメディア足り得るのは、権力者など大きな相手から「嫌がる秘密」を引き出して白日にさらすからだ。それが社会的に由々しきことであれば「誰から仕入れたか」「どうして仕入れたか」は問われない。「取材源の秘匿」はメディアが社会の規範に沿って活動する限り、保障されている。フリープレスとはそうして得た情報を発行する自由のことだ。

渡邊恒雄氏だって、敏腕の記者として若いころから「人に言えない秘密」を権力者から盗んでいたはずだ。ただ、渡邉氏は普通の記者とは異なり、知りえた秘密をすべて記事にするのではなく「知っていることで生じるアドバンテージ」を権力闘争に利用していたのだが。とまれ「人から無理矢理秘密を奪っていく」ことが、問題だとか、犯罪であるとかいう意識は毛頭なかったはずだ。明るみに出れば詐欺まがいことや、恐喝まがいのこともしたに違いない。昔から、敏腕記者は巾着切と似たようなものだったのだ。

その渡邉会長が、ライバルの新聞社に自社の秘密を暴かれたからと言って「窃盗だ」と激怒するのは、みっともないとしか言いようがない。世間様に言えないような契約をしていたこともみっともないが、それを信頼していた部下に持ち出されたこともみっともない。そしてジャーナリズムの精神を忘れて「抜かれた」ことを怒るのが一番みっともない。

氏がまだジャーナリストなのなら、内部の管理体制の甘さを赤面することこそあれ、情報を奪っていった新聞社をなじるなどということはありえない。渡邊氏は耄碌をして、自分が新聞記者だったことさえ忘れてしまったのだろうか。

日本という国は、沖縄返還にかかわる日米の密約をスクープした毎日新聞の敏腕記者西山太吉氏を国家公務員法違反で有罪にする国である。民主主義の重要な要素である「報道の自由」の精神を理解しない三等国ではある。偉そうに先進国づらするが、その程度の国なのだ。しかし取材を受ける者の安全、秘密が守られないような国では、健全なジャーナリズムは成立しえない。



「たかが野球」のことではあるが、読売新聞が行ったことは「ジャーナリズムの自殺」だと思う。

読売新聞の記者は、取材源が「入ってはいけない」と言われればすごすご引き下がるのだろうか。「秘密は明かされない」と言われれば「そうですか」と帰ってくるのだろうか。
自分たちの取材は「報道の自由」だが、取材されるのは「窃盗」そんな虫のよい理屈があるだろうか。

記者クラブに詰めて、取材源の金でコーヒーを飲むのが仕事、情報源が丁寧に作ってくれたリリースをコピペして記事にするのが仕事、と馬鹿にされる最近の新聞ジャーナリズムにあって、今回のスクープは久々に「新聞が仕事をした」という感じがする。

「誰が情報源か」は大事な話ではあるが、それによって情報源が非難を受ける筋合いはない。
重要な話はそこにはない。巨人軍がどこまで非常識な金をばらまいていたが、それこそが本質だ。マスコミは、そこを見誤ってはいけない。

人の行けないところまで、ずかずか入っていける特権を有するジャーナリスト諸氏は、その権利を本質に向けて行使してほしい。

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