セントラル・リーグの初代優勝チームは?と聞かれて「松竹ロビンス」という人は、当サイトなら結構いると思う。では、本拠地は?と聞かれて答えられる人は少し減るのではないか。
元は職業野球草創期からあった大東京。資金難から大阪の繊維商社田村駒の二代目田村駒治郎の支配下となる。ライオン、朝日と名前が変わって終戦。戦後はゴールドスターが分立するが、パシフィック、太陽、大陽と名前が変わるも、田村駒治郎が実質的に支配していた。
愛称のロビンス=駒鳥が駒治郎の名前から来ているのはよく知られている。
1950年2リーグ分立。当時はプロ野球への参入ブームに沸いていた。松竹が資金難に陥っていた田村駒治郎を支援、球団名は松竹ロビンスになる。
今から思うとなかなか良い名前だ。
松竹は発祥の地京都を本拠にすることとし、立命館大学硬式野球部が使っていた「立命館衣笠野球場」を整備して、「衣笠野球場」を作った。
敷地は今の立命館大学衣笠キャンパスとほぼ同じ。
私は35年ほど前、この大学に通っていたが、通学の生き帰り、学校周辺の電柱にこんな表示があるのを不思議に思っていた。
1本2本ではない。たくさんあるのだ。
「これは、ここが昔の球場だったからだ」と教えてくれたのは、今は某新聞社の管理職に収まっている(はずだが)友人だった。
しかし衣笠は、京都の五山の送り火で有名な左大文字の手前、京都駅からは車でも30分はかかる不便な場所だ。
往時は市電が走っていたとはいえ、立地としては良いとは言えない。
1950年に大阪球場が完成すると、試合はもっぱらそちらで行われるようになった。
衣笠球場は竣工時両翼わずか82.2m、中堅112m、客席は27000人だったとされる。のちに両翼は89.9mまで広げられたという。
立命館の学園通信に球場の写真が載っていたので転載する。
1994年に発行された田村駒100周年記念誌には、ロビンスの記事は2ページしか載っていない。あまり触れられたくない歴史なのかも知れない。
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
クラシックSTATS鑑賞もご覧ください。
1981年のセ・リーグ投手陣 リリーフ詳細版
広尾晃、3冊目の本が出ました。
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1950年2リーグ分立。当時はプロ野球への参入ブームに沸いていた。松竹が資金難に陥っていた田村駒治郎を支援、球団名は松竹ロビンスになる。
今から思うとなかなか良い名前だ。
松竹は発祥の地京都を本拠にすることとし、立命館大学硬式野球部が使っていた「立命館衣笠野球場」を整備して、「衣笠野球場」を作った。
敷地は今の立命館大学衣笠キャンパスとほぼ同じ。
私は35年ほど前、この大学に通っていたが、通学の生き帰り、学校周辺の電柱にこんな表示があるのを不思議に思っていた。
1本2本ではない。たくさんあるのだ。
「これは、ここが昔の球場だったからだ」と教えてくれたのは、今は某新聞社の管理職に収まっている(はずだが)友人だった。
しかし衣笠は、京都の五山の送り火で有名な左大文字の手前、京都駅からは車でも30分はかかる不便な場所だ。
往時は市電が走っていたとはいえ、立地としては良いとは言えない。
1950年に大阪球場が完成すると、試合はもっぱらそちらで行われるようになった。
衣笠球場は竣工時両翼わずか82.2m、中堅112m、客席は27000人だったとされる。のちに両翼は89.9mまで広げられたという。
立命館の学園通信に球場の写真が載っていたので転載する。
1994年に発行された田村駒100周年記念誌には、ロビンスの記事は2ページしか載っていない。あまり触れられたくない歴史なのかも知れない。
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