空前の豊作の5年間、結局この年代から1998年に向けた選手の仕込が始まっていたのだ。
通算安打=Hと通算勝利数=W セーブ=S、そしてH=1ポイント、W=10ポイント、S=5ポイントでチームごと、リーグごとのポイントをつけた。グレー地は入団拒否。えんじ色は移籍。移籍後の記録は加算していない。ただし元のチームに復帰した時はその数字も加算。要するにドラフトで獲得した選手が、直接的にどれだけ貢献したかを数値化。線以下はドラフト外。ブルー地は現役。
1985年、いろいろあったが救援投手としていい働きをした中山裕章が出た。中日で復帰したのはえらい。
1986年、デニーは指導者として活躍中。石井章夫は石井貴の兄。名捕手になった可能性はある。
1987年、大豊作。盛田、岡本は中継ぎで、野村は先発で活躍。そして内野の進藤達哉は永年渋い働きをした。
※盛田の成績、修正しました。ご指摘感謝。
1988年、今や野村克也の出場試合数に迫りつつある谷繁、そしてドラフト外で球団最多安打の石井忠徳(のち琢朗)が出る。二人とも現役中に球団を去った。このあたり、問題なしとしない。
1989年、史上最高のクローザーの一人佐々木主浩が出る。平塚克洋は阪神で中軸を打った。
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1980年梶間健一、全登板成績【虎退治しつつ、チーム最多の15勝】
1985年、いろいろあったが救援投手としていい働きをした中山裕章が出た。中日で復帰したのはえらい。
1986年、デニーは指導者として活躍中。石井章夫は石井貴の兄。名捕手になった可能性はある。
1987年、大豊作。盛田、岡本は中継ぎで、野村は先発で活躍。そして内野の進藤達哉は永年渋い働きをした。
※盛田の成績、修正しました。ご指摘感謝。
1988年、今や野村克也の出場試合数に迫りつつある谷繁、そしてドラフト外で球団最多安打の石井忠徳(のち琢朗)が出る。二人とも現役中に球団を去った。このあたり、問題なしとしない。
1989年、史上最高のクローザーの一人佐々木主浩が出る。平塚克洋は阪神で中軸を打った。
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1980年梶間健一、全登板成績【虎退治しつつ、チーム最多の15勝】
豊作年にしっかり逸材を確保することに成功しつつ、下位やD外でも好選手を確保できています。
高橋一、相川英明、松本豊は弱体投手陣の中で奮闘。
特に相川は背番号が20に出世するまでは良かったのですが・・・
大野は待ちわびた和製大砲・・・になるはずだったのですが。
現在在籍する宮崎とかぶるイメージがあります。
盛田は自主トレでテニス中にアキレス腱断裂したり大病に犯されたりと
波乱万丈な人生を送っていますが、シュートのキレは極上でしたね。
盛田・佐々木のダブルストッパーの時代がありましたが、時期によっては
佐々木・盛田の順番になることもありました。
盛田の方が信頼度が上だったのです。
岡本透は先発に中継ぎにフル回転。
野村は四半世紀以上存在しなかった左のエースに成長。
バッティングも良く、消化試合で代打で出場すると相手は投手を交代させるほどでした。
清水は2年ほどでしたが正三塁手に成長。
それまでが銚子でしたからハードルは低かったといえばそうなのですが・・・
横谷も屋鋪要が負傷離脱がちになり、波留が台頭するまでの間レギュラー。
ノム監督に「あんなヘッポコにHR打たれやがって」と言わせたのも彼でした。
田辺は典型的ノーコン速球派左腕。
巨人戦で1回表に三者連続四球を出し4番原にグランドスラム。
という荒業をやってのけた時には呆れて言葉が出ませんでした。
年に1回信じ難い好投をするのは、阪神仲田と共通。
呉は準硬式野球からの入団。
進藤は石井とD外同士の鉄壁三遊間を長く組んだ名手。
この2人が捕れない打球はしょうがない、というレベルでしたね。