私が野球の記録を愛好するのは、数字を通じて野球という競技や野球選手に肉薄することができるからだ。

ある野球選手について語る時に、プレーの写真を掲げ、言葉で「肩が良かった」「足が速かった」と言葉で説明するだけでもある程度のことは伝わる。しかしここにキャリアStatsを添えれば、その選手の個性、魅力がぐっとリアルになる。若い頃は素晴らしく足が速かったんだ、30を越えた頃から長打も打てるようになって、40歳まで頑張ったんだ、とその選手の野球人生がうかびあがってくる。

スコアをつけたり、細かいデータを取るのも同様だ。この試合で投手はどんな球を投げたのか。いつもとどう違ったのか、打者はどんな風に攻略したのか。

音楽家は、譜面を見るだけで音楽が頭に流れるというが、野球ファンは、試合記録を見るだけで、ゲームの流れが眼に浮かぶようになる。譜面も試合記録もどちらも「スコア」だ。
野球の記録は、野球という生身の人間の戦いを後から知る何よりの縁だ。

私にとってセイバー系の数字もその一つだ。OPSやWHIPやRCや、その他もろもろの数字も全て、選手を評価し、その個性をよりリアルに浮かび上がらせるための道具だ。それ以上ではないと思っている。

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セイバーメトリクスは、今やMLBでは、チームの勝利の基幹をなすデータになっているようだが、私には興味がない。セイバーは基本的には統計学、確率論の世界であり膨大なデータを背景に「こうしたほうが成功する公算が大きい」ことを導き出すものだが、これが行き過ぎると野球が変質する。

最たるものが、MLBの野手のポジショニングだ。各打者ごとに極端に守備位置を変える。あるときなど狭い一、二塁間に4人もの野手がグラブを構えていたことがあった。彼らは自分の考えでそうしたのではなく、ベンチ、データ分析スタッフの指示でそうしている。
これがさらに進めば、野手は一定以上の技量を備えていれば誰だって良いことになってしまう。
打者の打席での動きに応じて独自の判断で、臨機応変に守備位置を変えたりする「良い野手」はかえって邪魔になるかもしれない。
確率論がさらに浸透すれば、当たりに当たっている打者は最初の打席でも、無走者でも、満塁でも歩かせる方がいい、とする日がくるかもしれない。

スポーツだけではないが、データはさまざまな物事の「不明確な部分」「あいまいな部分」をはっきりさせる。人々が安全で健康な生活を送る上では、それは良いことだが、スポーツから不確定要素がなくなるのは、いいこととは思えない。
「何が起こるかわからない」からスポーツは面白いのであって、その不確定要素をあらかじめ潰してしまうようなものがどんどん入り込むのは、見るものにとっては愉快なことではない。

それにデータは大したことは言わないのだ。
私はある統計学会の発表で、大量のデータを駆使して一塁手の守備を分析した挙句に「もう10センチだけ内側に守ったほうが良い」という結論が導き出されていたのに呆れた記憶があるが、経験豊かな野球選手や指導者なら一瞬で導き出せる判断を、とくとくとしてひけらかしているようなことも多いのだ。

データで次の配球を知るよりも、解説者が「この選手、入れ込んでるから高めの釣り球ですよ」という方が確実に面白いと思う。

セイバーメトリクスの徒にとって、自分たちのデータがプロの現場で活用されることが喜ばしいのはよくわかる。素人がプロに指示を出すのは快感かもしれない。

しかし、それは私たち観戦者には関係のないことだ。
それによってけったいな作戦、姑息な手段が増えて、選手同士の真剣勝負や選手の天才的な直感によるスーパープレーが減るとすれば、そしてリスキーな作戦が減るとすれば、そんなデータ野球は願い下げだ。

またそのことによって、超人、天才の集まりであるプロ選手に対するリスペクトが減じるようなことがあってはならないと思う。
自分は1球の球も投げられない、バットにボールを当てることさえできない素人が担う役割には、限度があってしかるべきだ。

今のセイバー系のデータに対する最大の不満は「勝つこと」「リスクを減じること」には熱心だが「野球を面白くすること」「人を喜ばせること」にはそれほど熱心ではないことだ。

味方チームが勝てばワンサイドでも嬉しい客も多いだろうが、好勝負を期待するファンもたくさんいるのだ。
データがそうした人々にどんな楽しみを提供することができるのか、私が注目しているのはその一点である。

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