「吉本興業と同じ乗り」の阪神、「ええとこの子が応援する」阪急、「昔からの大阪が好きなおっさんの」南海、に比べて、近鉄バファローズは、“誰が応援してるのやろ”というところのある球団だった。
私は近鉄沿線で育った。近鉄の幹線は大阪と奈良を結ぶ近鉄奈良線だったが、私が子供のころは、この路線の大阪側の終点は上本町だった。
他地方の人にはわからないと思うが、上本町というのは大阪のほんの入り口。雑然とした闇市のような雰囲気の鶴橋ガード下の西、下味原の交差点をこえて上町台地の坂の上にあるターミナルだった。
大阪の中心地はこの台地を超えた向こうにあった。
ここまでしか線路が来ていない近鉄は、大阪の電鉄会社とはいいがたかった。

阪神、阪急は大阪一のターミナル、梅田を拠点としている。南海は南の玄関口、難波が拠点だ。

近鉄はもう一つ、南大阪線というのがあって阿倍野橋もターミナルにしていたが、どっちにしても、大阪の端っこから奈良の田舎に向けて電車を走らせている。という感があった。淀屋橋から淀川沿いに京都へ向けて走る京阪電鉄とともに、ローカルという印象だった。

近鉄は国鉄が民営化されるまで、路線距離最長の私鉄だったが、田舎を走る電車、だった。

おまけに本拠地スタジアムがしょぼかった。藤井寺球場は阿倍野橋から30分。ずいぶん遠くへ来たという気がした。日生球場は大阪の町中にあったが、ここは近鉄では行けなかった。国鉄や地下鉄を経由しなければならなかった。
今も残る日生球場前の石畳。

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しばらくたって近鉄は難波まで延伸したが、田舎の電車が無理をして大阪に出張ってきた、という感じだった。

関東でもそうだろうが、私鉄の沿線には独特のカラーがある。

阪急神戸線は、上品な山の手。「親の代に大阪の船場から西宮、芦屋にひっこしましてん」という風情の「細雪族」が住んでいた。マルーンカラーの電車も上品だった。

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阪神は、阪急と同じエリアに電車を走らせていたが、幾分海側。西淀川、尼崎という工場地帯を走り、活気はあるががちゃがちゃしていた。平日でも尼崎のボートレースに行くようなおじさんが乗っている。阪神ファンの原点は「東洋のマンチェスター」と言われたブルーカラーなのだ。車両の色はいろいろあったが、いずれも阪急よりも「安い」印象だった。

南海は、大阪の古い繁華街である難波、さらに天王寺というディープなエリアを走って和歌山、高野山に向かう。沿線には帝塚山という高級住宅地もある。阪急のように派手さはないが、オールド大阪の落ち着きがあった。くすんだグリーンの電車はそうしたたたずまいによく合っていた。

しかし近鉄にはそういうカラーはなかった。電車は阪急のまねをしたような赤茶色。通るところは新興住宅地。「大阪府奈良市、大阪府生駒市」と言われるベッドタウンを走る電車は、毎日サラリーマンを満載していた。

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百貨店も、カラーを象徴していた。
「気の張るお使い物は阪急」「食べ物やったら阪神」「品ぞろえの高島屋(南海難波に隣接)」そして近鉄百貨店は「サラリーマンのための百貨店」だった。

プロ野球のチームカラーも、電鉄のカラーと同調していた。
「しっかりしたはる阪急」「やかましい阪神」「落ち着いた南海」そして「どっちつかずの近鉄」

往時の近鉄の応援団は、よく他球団の応援のまねをしたのだ。
ドカベン香川が捕手だったころの南海には、吉田という捕手もいた。「香川よりましな顔」ということで「男前」というあだ名がついた吉田は「よしだ、よしだ、男前」と応援されたが、近鉄はレギュラー捕手の山下を「やました、やました男前」とやったのだ。こちらには根拠はない。
大阪球場の南海近鉄戦で、近鉄が負けると南海は「近鉄電車ではよ帰れ」とやる。近鉄が挽回すると近鉄ファンは「難解電車ではよ帰れ」とやるのだ。
「まねすなー」「あほかー」とヤジが飛んだものだ。

噺家でいえば、阪神ファンは桂春蝶、月亭八方、阪急ファンは桂米朝、笑福亭松之助、南海ファンは桂春団治、桂春若、近鉄ファンは笑福亭仁智…

近鉄沿線育ちだが、私が近鉄ファンだったことは一度もなかった。
阪急沿線の箕面で育った祖母や母は「近鉄百貨店の店員はあかん」と悪口を言っていたし、徳島から大阪に出てきた父は、名古屋で医者をやっている父の兄とともに、同郷の板東英二が活躍する中日のファンだった。私は友人の影響で、南海ファンになった。

西本幸雄が阪急を退任して、近鉄の監督になってから、バファローズは強くなった。レギュラーは固定され、「第二の阪急」というべきカラーを帯び始めた。ちゃんと野球をしだしたのである。

南海は近鉄に勝てなくなった。これは意外なことだった。新興の、ついでに野球をしていたようなチームが優勝するようになったのだ。
「世も末じゃ」と思ったころには南海は身売りで福岡に行き、阪急は青い色に衣替えしてよそよそしい球団になった。

平成に入って、大阪の球団と言えば、がらの悪さにターボがかかった阪神と、よそよそしいオリックスと、大阪ドームに移ってちょっと洗練された近鉄しかなくなった。

これは近鉄を応援するしかないと、ドームへ行くようになった。うちの裏に住むハイヒールのモモコがいつも来ていた。
倅は近鉄バファローズのファンになった。優勝決定の試合で近鉄が負けそうになった時に、突然、畳に突っ伏して泣き出したのには驚いた。その直後に北川の逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打が出たのである。

近鉄の最後は悲惨だった。ファンを無視した合併劇で、近鉄は別れを惜しむ間もなくこの世からいなくなった。
近鉄は、バファローズのミュージアムを作っていない。藤井寺球場後には、こんなブロンズ像があるだけだ。

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オリックス・バファローズとして建前上、存続しているからかもしれないが、そうした対応のお粗末さこそ「近鉄らしい」と言ってもよいかもしれない。


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