大きな体、重い速球。シュート。恵まれた資質の持ち主は、宿痾によって短い人生を終えた。
函館有斗高から1987年ドラフト1位で横浜大洋に。2位が岡本透、3位が同学年の野村弘だから、この年の大洋は豊作だった。
同世代には立浪和義、橋本清のPL勢。伊良部秀輝、鈴木健、大道典良、吉永幸一郎、ドラフト年次は違うが片岡篤史、桧山進次郎、田口壮、若田部健一。
ついこの間まで現役だった世代だ。
キャリアSTATS

当初は制球が悪く、二軍暮らしが続いたが、1991年には主にロングリリーフで14勝を挙げる。規定投球回数にも達し、防御率のタイトルを取る。
以後もクローザー、セットアッパーとして活躍。成績が下落し、トレードで近鉄に。
しかしこの年に、運動障害が出て、髄膜腫が見つかる。
髄膜腫は脳腫瘍の一種だが、良性であり、手術で除去すれば命に別状はない。しかし運動能力に障害が残る恐れがある。
盛田はこれをリハビリで克服。2001年にはワンポイントで投げられるまでになり、カムバック賞を受賞。翌年引退。
球団職員、解説者として活躍していたが、2005年にふたたび脳腫瘍になる。「再発」と書かれているものもあるが、前回は良性、今回は悪性であり、再発とは言えないかもしれない。
弟は幼時に脳腫瘍で死んでおり、珍しい例ながら遺伝があったのかもしれない。
働き盛りに10年もの闘病生活。現役時代に病を克服したことを心のよりどころに、病と闘ったのだろう。
アスリートの夭逝は、社会にショックを与える。一度は病気を克服しただけになおさら残念である。
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「来るべき時が来た」
という感じがしました。
この病は除去しても離れた個所に転移するようで、
以前盛田も足首を骨折してしまったとブログで書いていました。
常人には想像もつかないレベルの、病との闘いに明け暮れたことでしょう。
落合の頭の付近にすら平気で投げ込む強気の
投球スタイルは背番号17の前任者・斎藤明夫の後継として
十分に値するもので、佐々木とのダブルストッパーは
大洋ファンの数少ない希望の光でした。実際、
まだ本格化する前の佐々木に比べて、盛田の方が信頼できましたし。
残念ですね。