うんざりするが、もう一度だけ。
ブログをやっている最大の喜びは、コメントをもらうことだが、こころないコメントは本当に悲しい。匿名で、自分が安全な立場にいて、他人を無慈悲に非難することがどれだけ情けないことか、胸に手を当てて考えてほしい。それは誰にでもできることだが、心ある人、己に矜持のある人は決してしないことだ。
小久保裕紀が、プロ野球脱税事件で懲役1年、執行猶予2年、罰金700万円の有罪判決を受けたのは、1998年のことだ。
事件そのものは4年前、彼が新人のときに経営コンサルタントに誘われて、契約金などを不法な処理をして脱税したというものだ。
小久保が有罪判決を受けたのは26歳。もう分別のある年齢であり、すでにパ・リーグを代表する打者にもなっていた。
22歳の時にそそのかされておこした犯罪であったとしても、社会的影響を考えれば、彼の責任は非常に重いと言えよう。
不確かな記憶だが、小久保はこのとき「グランドでお返ししたい」と言って、周囲の人から「そういう問題ではない」とたしなめられたはずだ。王貞治監督からも強く叱責された。
小久保は以後、大打者へと成長していくが、それは「グランドでお返し」をしただけではない。
人格的にもチームリーダーになり「ミスター・ホークス」の名を冠せられるようになる。
同時期、二本柱と並び称された松中信彦は、全盛期の成績では小久保よりかなり上だが、力が衰えた松中が、チーム内で浮いた存在となり、チームの和を乱すような行動をとったのとは対照的に、小久保は選手、ファンに愛されて現役を引退した。
感心したのは引退後の彼の野球解説である。常に「このシチュエーションでは選手はどうあるべきか」を念頭に解説をしている。失敗を責めるのではなく、どうするべきだったのか、どうすればうまくなるのかを、紀州なまりでじゅんじゅんと説くような解説は好感が持てた。
この人は「教育者」なんだな、と思った。
「教育者」は「勝負師」のように、すぐに結果を求めたりしない。長いスパンで物事を考え、一つ一つ階梯を登っていく。
これから成長しなければならない「侍ジャパン」にとって、まさに適任だったと言えよう。
プレミア12でも、原隊のチームに配慮をしつつ、育てる采配をしていたと思う。
「侍ジャパン」は、NPB、野球界では“反主流”である。既得権益を守りたいサイドからは疎ましい目で見られている。
しかし球団の現場や、メディア、独立リーグなどには「侍ジャパン」のシンパもたくさんいる。彼らにとって、「侍ジャパン」は、なかなか変革が進まない野球界の「希望の星」でもあったのだ。
私は関係者から酒席でその構想を熱っぽく聞く機会があった。私のような一介の部外者がこんな話を聞いてもいいのか、と思ったが、その構想はプロ、アマ、中央、地方を巻き込んだ大きなものであり「侍ジャパン」は、その中核となる存在だった。
彼らの将来構想を託す存在として「小久保裕紀」は選ばれたのだ。
ある意味で、小久保は26歳の時に受けた「有罪判決」を契機に、野球人としてだけでなく、責任ある社会人として成長したと言ってよいだろう。
それこそが贖罪であり、禊だったと思う。
些細な失敗に言いがかりをつけて、解任するのは球界の損失だ。
小久保の前科をことさらに言い立てる人も、「贖罪はした」「禊は済ませた」ことは認めている。彼はすでに罪科を責められる人ではないということだ。
それでいて、なぜ、侍ジャパンの監督に不適格だというのだろうか。
小久保はまだ贖罪が足りないのか、それとも今でもインモラルな行状を行う可能性があるというのか。
確かに一生許すことができない罪過もある。野球界であれば八百長に関与した人間は、たとえ十代の過ちであっても、一生球界には戻れない。
しかし小久保の犯した罪は、微罪ではないが野球とは直接関係がない。それを18年後のいま、したり顔で取り上げるのはこころないことだと思う。
匿名の人間が、ネット上とはいえ、不当に人を貶めるのは許されない。卑しい私刑のたぐいだと思う。
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思えば、プロでの恩人だった高畠コーチの遺志を引き継いで、ゆくゆくは教師になり高校野球の監督に、という目標を語っていました。
だとしたら、ヘッドコーチか打撃コーチという立場の方が良かったのかもと思います。
監督を務めるには、胆力溢れる勝負師の部分がないと厳しい。
頭の良さは決断力を示すのにマイナスになるのかな。
今回の継投ミスで監督としての力量が足りないと非難するのは別に問題はない。
しかし、昔の脱税や離婚騒動を持ち出して個人攻撃するのだけは止めたいもの。