スポーツ基本法の話が出てきた。これは非常に重要だ。我々はスポーツをする権利を等しく持っているのだ。ABCさんの意見に注目。

アメリカの少年野球は「一握りの選手」ではない|野球があぶない!

アメリカで子供にスポーツをさせればいくらかかるのか「一握りの選手」|野球があぶない!

変革を迫られている「部活」「一握りの選手」|野球があぶない!


競技スポーツだけがスポーツではない
アナリスト

やはり、アメリカは社会貢献としての富豪の寄付という文化があるから、資金の必要がないスポーツが可能なのかと思った次第。
血税なんていう言葉もあるように、公金の使途には神経質な日本社会では、アメリカ以上に大金持ちの寄付の文化がないと、貧しい家庭の子息がスポーツをやれるようにはならない気がしてきました。
プロ野球選手という、最高のステータスがあるだけに、私みたいに勝とうが負けようがゆるゆるな野球に早々と転向出来ない野球少年も多いでしょう。
何も競技スポーツだけがスポーツではない、という意識がもっと必要かと。

小学生は親善試合だけでいい
Gファンですが

>みんなが楽しめる野球を開発する時期に来ているのではないかと思う。
どうすればここに近づけるのか。
私の娘は小学時代スポーツ少年団のクラブでバスケットボールをやっていました。費用から言えば年間1万円もかからなかったでしょう。しかし、親の負担は・・・。
県内で1位を競う大会が複数あり遠征とやらに幾度と借り出されました。
このとき感じたのは小学生の頃から県1位を決める必要があるのか、という点。
小学生の試合は近隣小学校との対抗戦ぐらいで足りるだろうと思ったものです。極端に言えば親善試合だけでいい。

多様なスポーツを楽しめる環境が、あってもいい
divot

一戦必勝や道を究めるのもいいですが、レクリエーションとして身近にかつ多様なスポーツを楽しめる環境が、もっとあってもいいですよね。
その為には、スポーツと学校教育を切り離し、スポーツ文化を醸成できる新たな環境を構築していくことが必要になるのだと思います。
製造業におんぶに抱っこの日本経済では、内需拡大はおろか、むしろ限界が訪れるのは自明な訳で、この先、サービス業にシフトしていく中で光明を見出すとするならば、スポーツが果たす役割は大きくなるのではないでしょうか。
要は、必死に働いて稼ぐよりも、余暇を十分に取って娯楽やスポーツにお金を使うようにすれば、自ずと国民の暮らしが豊かになると思うのですけどえねぇ。

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競技スポーツをする自由がない
万年補欠部員

野球に限らず日本のスポーツは
公園で友達を集めてやるような「遊びのスポーツ」の自由は
ある程度ありますが、(最近はボール遊び禁止の公園も増えてそれすら危うい?)
公式のルールに則って真剣勝負をするような「競技としてのスポーツ」は
「一握りの選手」になれないとできないという妙な選民意識があると思います。
部活は競技スポーツのほうになりますが、
競技スポーツを皆で楽しむという発想がになれない理由はなんでしょうか?
以前顧問に補欠も試合に出させてくれと直談判したら
「楽しくやりたいなら外でやれ。同好会は部活で真面目にやっている人の迷惑になるから作るな。」
と言われました。
日本人は部活を楽しむ=不真面目という固定観念に縛られているのではないのでしょうか。
スポーツや部活ものの漫画やアニメでも楽しみたい派の人間が怠惰な人間として描かれていることが多いためそんな風に思いました。

スポーツ基本法は国民の権利だ
ABC

スポーツ基本法では「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、全ての人々の権利であり、全ての国民がその自発性の下に、各々の関心、適性等に応じて、安全かつ公正な環境の下で日常的にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画することのできる機会が確保されなければならない。」と、あります。つまりスポーツは「機会」や「環境」が確保されるものです。
 法の条文とはある意味で常識を文章化しているわけですが、スポーツでは「機会」と「環境」が常識なのです。
 サッカー協会の「グラスルーツ」はまさに「機会」と「環境」を謳ったものです。サッカーでは協会主導のトップリーグとは別に現場の人々が始めた地区リーグ形成が進んでいました。代表的なものとして東京のU-18のDUOリーグがあり、96年から「歯磨き感覚」という理念で部活と地域クラブでリーグを開始し、試合数の増加、都内での地区リーグの普及、トップの公認リーグとの接続、レベル別の多層リーグの形成、と「機会」と「環境」の確保に成功しています。「グラスルーツ」は今後の方針で協会と現場の理念が(ようやく)一致したわけです。また協会はこれまでエリートユースの環境整備を優先してきた事に批判があり、それに対する回答とも言えるでしょう。
 他の学生スポーツでもトーナメント一回戦の巴戦、敗者復活戦、トーナメント上位下位を分けての順位決定リーグ等、公式戦の確保が行われています。野球でもリトル、ボーイズやシニアで同様のシステムが見られますし、高校野球でも現場レベルでは小さなリーグ予選、一年生大会を開く等、様々な事がなされています。そもそも高校野球で行われる練習試合は公式戦の少なさから発生する試合の確保です。
また頭脳スポーツである碁や将棋、チェスで棋力、級、段、レーティング、それらによるランク制が古くから存在します。欧米ではビデオゲームでのネットを通じた対戦が増えると共にランク制のマッチングが常識化しています。そしてゲームはeスポーツとして発展しました。これらを見ると、常識として、スポーツを行う「機会」と「環境」は自然とシステムとして確保、整備されるものです。

 しかし高野連、メディアは「機会」と「環境」ではなく、4000校が参加する負けたら終わりの真夏のトーナメントを勝ち抜いた優勝校と球児たち、これを求めています。そのため甲子園大会はメディアの興行となり、それを担う高校野球はスポーツではなく興行と一体化しています。この現状では統括組織が理念を打ち出し、システムの変更を行い「機会」と「環境」を実現する日は遠いでしょう。
 荒い計算ですが高校球児が170000人、加盟校が4000校、ベンチ入りを20人と考えれば90000人がベンチ外にいることになります。高体連の資料を見れば男子バスケットの登録選手が98000人です。一つの人気学生スポーツの登録選手数に匹敵する数字と考えれば、なかなかインパクトは大きいものです。代替わり等ありますが公式戦に一度も出場しない選手は一体どれだけいるのでしょうか。彼らが野球をスポーツとして行う「機会」と「環境」は存在しているでしょうか。
 感覚的にではありますが、高野連は以前よりも高校野球は「教育」であるという主張を強めているように思えます。興行的であるとの批判を教育という座布団に座ることで躱そうとしているのではないでしょうか。しかし日本人は「スポーツ」に対する理解を深めています。これは価値があり尊重されるべきものだと気づくでしょう。そして高校野球が抱える大量の補欠は「スポーツ」であることで解決されると指摘された時に、それに野球界、高野連は応えることができるでしょうか。

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