選手の進退は、言うまでもなく選手自身の決断である。そのことに異論をはさむ余地はない。しかし、出処進退は、その人間の価値観を反映する。
昔から出処進退は、その選手の個性や職業観、倫理観を如実に反映していた。

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鶴岡一人は、まだ主軸打者として活躍できる実力がありながら36歳で引退した。鶴岡は30歳で兼任監督になり、試合だけでなくチームの運営までを担っていた。「100万ドルの内野陣」を作ったり、新人選手を獲得したり、忙しい日々だった。
鶴岡にとっては「選手」は、野球人生のほんの一部にすぎず、それを捨てることに大きな躊躇はなかった。

川上哲治は、1957年に打率.284に終わった。8年連続3割がこの年に途切れた。それでも打撃10傑の5位だったが、38歳になる川上は「もう1度3割を打てなかったら引退しよう」と心に決めていた。今年長嶋茂雄が入団。華々しい活躍をする。川上は.246に終わり、自分の時代が去ったことを知って引退する。

藤村富美男は39歳の1955年に、世代交代を図る岸監督によって出場機会を減らされるが、これを排斥して兼任監督となった。
しかし監督としては、采配は水準以上だったが、金田正泰など選手との軋轢を生んでうまくいかなかった。そこで57年にはいったん現役を引退し、専任監督となるが、1年で解任され、現役復帰をする。しかし活躍することはできず1958年に引退した。直接の動機は終身打率3割を維持するためだったという。世渡り下手だったために進退を自ら選ぶこともできず、中途半端な退場だった。その後の藤村の後半生の不遇を象徴するようなエンディングだった。

長嶋茂雄は、1年目からずっと規定打席に達し、オールスターに選ばれ続けたが、1974年、巨人のV10がなくなった日に引退を表明。打率はキャリア最低になっていた。周囲は「他の選手ならもっとできただろうが、ミスターはみじめなプレーは見せられない」と語った。

王貞治は、22年目、40歳の1980年も30本塁打を打ったが、「王貞治としてのバッティングができなくなった」と引退を表明。これ以上プレーすると終身打率が3割を切ってしまうことも大きかったと言われる。

野村克也は1977年、兼任監督をしていた南海を追われた。すでに42歳。引退すると思われたが、現役続行を表明。「ノム、うちにこい」と金田正一に誘われてロッテに移籍する。このとき「野村が来てはかなわない」と、ロッテの捕手村上公康が引退している。その後西武に移籍し、1980年に引退。自分に代打を送られたのが直接のきっかけだったという。

江川卓は13勝をマークした1987年オフ、突如記者会見を開き、右肩の禁断のツボに針を打ったために投げられなくなったとして引退を表明した。
のちに鍼灸医から「そんなツボはない」と抗議を受けて、江川は作り話だったことを認めたが、引退は撤回せず。引退の動機は今もって不明。

福本豊は阪急ブレーブスがオリックスに身売りをした1988年の最終戦、上田利治監督が西宮球場でのあいさつで「去る山田(久志)、残る福本」というつもりが「去る山田、そして福本」と言ったことに端を発して、「監督がそういうならやめまっさ」と引退を決意。
41歳のこの年、起用が減っていたことに不満を抱いていた福本はひそかに引退を決意していたという。

落合博満は45歳になる1998年、日本ハムに在籍していたが、上田監督が落合をスタメン落ちさせたことが契機となって、チームとの一体感が薄れ、引退を決意。すでに成績は下落、4番を打つ力はなくなっていたが、落合に直接引導を渡すことは、上田監督にもできなかった。

赤星憲広は、2009年オフに突如引退を表明。外野の守備や走塁で頭から突っ込むプレーを繰り返すうちに、重度の頸部脊柱管狭窄症となり、現役続行が不可能になった。本人は現役続行の道を模索したかったが、阪神球団は非協力的だったという。

以下続く。


長嶋茂雄安打あれこれ

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