前のブログで、上尾の今投手は左だと書いたが、右だというご指摘をいただいた。訂正する。
いしいひさいちが、全国区になったのは、「週刊漫画アクション」での「タブチくん」のヒットからだった。
1980年には「おじゃまんが山田くん」がアニメ化される。舞台設定を関西から東京にして、東淀川を東江戸川にしたのだが、これによって原作の持ち味である「関西の毒」が消えてしまった。
しかも台本は「サザエさん」の辻真先のグループ。アニメの主題歌が「いい人」を連発するなど、いったいなぜアニメ化をしようとしたのか、理解に苦しむような作品だったが2年間も続いた。
この当時、関西ローカルが全国区化するためには「毒を消す」ことが必須だった。関西で圧倒的な人気を誇っていた笑福亭鶴瓶が、なかなか東京で定着できなかったのも「解毒処理」に手間取ったからだった。
漫才ブームの進展によって、それは次第に消滅するのだが。
「タブチくん」は、この逆をいく設定がうまくいったのだと思う。
東京人のタブチくんが、阪神で、関西人の遠慮会釈のない攻撃にさらされる。
70年代後半、実際の田淵幸一はどんどんと太りだし、“横着かましてる”印象が強くなった。
いつだったか、打者がファウルを打ち上げたのに田淵が、追わなかったことがある。打球がファウルグランドにぽとりと落ちて、ファンが猛烈にやじり倒した。
実際の田淵がどういう性格だったかはわからないが、いしいはこの時期のタブチくんを、お気楽で、幾分ナルシストで、わりと可愛い設定のキャラにしてみせたのだ。
これが大当たりした。

今では4コマ漫画での野球選手のカリカチュアライズは珍しくもないが、本格的なものは恐らく、いしいひさいちが初めてだっただろう。
劇画系はともかく4コマの素朴な漫画で、野球選手など有名人をカリカチュアライズする人がいなかったのは「似ていない」と言われることを恐れたからだと思う。多くの人が知っている人物をシンプルな線画で描写し、しかもキャラとして言動をつけるのは難しい技だった。
しかしいしいは、これを平然とやってのけた。
タブチ君にしても、ヤスダにしても、確かに似ていた。いしいの技術はすごかったと思うが、いしいは実在の人物に似ている、似ていないに拘泥していなかった。
強引にキャラクターを仮託し、実在の人物とは別個に強烈なキャラを作り上げたのだ。
のんきなタブチ君、小ずるいヤスダに始まり、陰湿なヒロオカ、かわいらしいカケフ(のちにキャラは大きく変わる)。実在の人物からヒントを得てはいたが、キャラ自身が独り歩きし始めると、似ている似ていないは、どうでもよくなった。
カリカチュアはだんだんにエスカレートする。中畑は、「ゼッコーチョー!」と叫ぶ狂人になる。王は、ほとんどうつ病のような暗鬱な男、村山実は短気、吉田義男は吝嗇、江川卓は耳の大きな不気味な男、原辰徳はへらへらしている馬鹿、宇野に至っては「うああああ」というだけで、セリフさえない。
1980年代なかばになると、いしいひさいちの漫画から入った女の子が、テレビで原辰徳や中畑清を見て「漫画そっくり」というようになる。逆転現象が起こったのだ。
ブームになるのは非常に早かった。1979年にタブチ君は映画化され、西田敏行がタブチ君の声を演じた。
私はこれも全然面白いとは思わなかった。「毒」が全くなくなっていたからだが、それでもこの映画はヒットした。
タブチ君は、漫画では「ミヨコ」という能天気な奥さんがいたことになっていたが、実際の田淵幸一は、この時期、前夫人との離婚、現夫人ジャネット八田との結婚などを抱えていた。
どこかで、この漫画には迷惑したと語っていたが、田淵幸一のイメージアップには多少なりとも貢献したのではないか。
タブチ君のキャラは、「ワイはアサシオや」の朝潮太郎とほとんど同じだった。いしいは、こういうキャラが好きだったのだろう。
1979年、田淵幸一が西武に移籍する直前、いしいはタブチ君が河原の土手に座っている笑いのないマンガを描いた。
移籍が決まると「がんばれタブチ君」が一時期「がんばれタブチさん」になった。いしいなりの気づかいのようだったが、これはちょっとしたいい話だったと思う。
1966年池永正明、全登板成績【ヒジ痛と闘いながらのピッチング】
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月に向かって吠えていましたね。
映画版ではプロ野球ニュースのササキさんのキャラもよかった。