79歳、MLB解説で、とにかくやたら詳しいおじさんと言う印象だった。
ボイヤー、シピン、ポンセなど、大洋、横浜の思い出深い外国人選手は、ほとんどが牛込スカウトがよんできた。
4月9日死去。
上田龍さんのコメントを紹介しておく。
実は、今の自分があるのもこの人のおかげである部分が大きい。
1979年、横浜大洋ホエールズの球団社長を務められていた方が、メジャーリーグに見習った球団の強化策やPR方法を追求されて改革に着手されていた時、その命を受けてスカウト活動の傍ら、現地での視察やフロントへの提案を行なっていたのが牛込さんだった。
強化策の柱だったのは当時Dodgersの球団会長秘書・会長補佐兼国際担当を歴任されていたアイク生原さんをゼネラルマネジャーとして招聘することだった。命を受けて渡米した牛込さんはDodgersのピーター・オマリー会長に球団社長からの親書を渡し、その真意を理解したオマリー氏もアイクさんの大洋入りを承認したが、メジャーでの仕事を全うしたいというアイクさんの意思が固く、実現には至らなかったという。この経緯は生前に牛込さんから直接伺っている。
PR策の一環だったのが球団オフィシャルマガジンの創刊で、牛込さんはメジャー球団が発行しているオフィシャルマガジン等を持ち帰って創刊に尽力された。こちらはパイロット版を経て1980年に隔月誌の「横浜大洋」、1985年からは「月刊ホエールズ」(のちに「月刊ベイスターズ」)となって実現している。そして私は1983年に「月刊ホエールズ」の編集を委託されていた編集プロダクションに入社して野球に関わり始めたので、もし牛込さんがいなかったら今の私はなかっただろう。ただ編集部在籍中は牛込さんが創刊時に果たされた役割は知る由もなく、のちに「スカパー!MLBライブ」のコメンテイターとして再会を果たしてからいろいろなお話を伺うことになった。
「月刊ホエールズ」時代は正直よく怒られたが、ただ一方的に叱るのではなく、たとえばこういうケースではこうした方がいい、こうすればもっとうまく行くときちんと指導してくださる方だった。個人的な趣味もあって、時折雑誌にメジャー関連の記事を掲載した時もきちんと目を通してくださり、間違いがあれば電話や球場で直接会った時に指摘してくださった。
私が「月刊ホエールズ」編集部を辞し、牛込さんもベイスターズを退団されたあと、雑誌の取材でお目にかかるようになり、やがて「スカパー!MLBライブ」でご一緒するようになって、控室などで伺った貴重なお話は今でも私の財産になっている。
2006年に渡米した際、クーパースタウンでクリート・ボイヤー氏と偶然遭遇した折にも「Mr.Tad Ushigomeと一緒に仕事をしている」と自己紹介すると本当に親切にしていただき、クーパースタウンでも数日後のヤンキースタジアムでのオールドタイマーズデイでもさまざまな話を伺うことができた。帰国後そのことを牛込さんに話すと、「そうか、ボイヤーは元気そうだったか」と大変喜ばれていた。
スカパー!で担当した最後の中継は2008年のワールドシリーズだったが、光栄なことに牛込さんとのダブル解説だった。
昨年の年賀状に「もう高齢なので来年からは年始のあいさつは遠慮させてもらいたい」と書かれていたので、一度は電話でも差し上げなければと思っているうちに、今回の訃報に接することになってしまった。
一度きちんと御礼を申し上げたかったが、もはやそれも叶わなくなってしまった。
いまごろは、ボイヤーや「素浪人」ことマイク・クレスニックと天国で再会を喜び合っていることだろう。
牛込さん、本当にありがとうございました。
実は、今の自分があるのもこの人のおかげである部分が大きい。
1979年、横浜大洋ホエールズの球団社長を務められていた方が、メジャーリーグに見習った球団の強化策やPR方法を追求されて改革に着手されていた時、その命を受けてスカウト活動の傍ら、現地での視察やフロントへの提案を行なっていたのが牛込さんだった。
強化策の柱だったのは当時Dodgersの球団会長秘書・会長補佐兼国際担当を歴任されていたアイク生原さんをゼネラルマネジャーとして招聘することだった。命を受けて渡米した牛込さんはDodgersのピーター・オマリー会長に球団社長からの親書を渡し、その真意を理解したオマリー氏もアイクさんの大洋入りを承認したが、メジャーでの仕事を全うしたいというアイクさんの意思が固く、実現には至らなかったという。この経緯は生前に牛込さんから直接伺っている。
PR策の一環だったのが球団オフィシャルマガジンの創刊で、牛込さんはメジャー球団が発行しているオフィシャルマガジン等を持ち帰って創刊に尽力された。こちらはパイロット版を経て1980年に隔月誌の「横浜大洋」、1985年からは「月刊ホエールズ」(のちに「月刊ベイスターズ」)となって実現している。そして私は1983年に「月刊ホエールズ」の編集を委託されていた編集プロダクションに入社して野球に関わり始めたので、もし牛込さんがいなかったら今の私はなかっただろう。ただ編集部在籍中は牛込さんが創刊時に果たされた役割は知る由もなく、のちに「スカパー!MLBライブ」のコメンテイターとして再会を果たしてからいろいろなお話を伺うことになった。
「月刊ホエールズ」時代は正直よく怒られたが、ただ一方的に叱るのではなく、たとえばこういうケースではこうした方がいい、こうすればもっとうまく行くときちんと指導してくださる方だった。個人的な趣味もあって、時折雑誌にメジャー関連の記事を掲載した時もきちんと目を通してくださり、間違いがあれば電話や球場で直接会った時に指摘してくださった。
私が「月刊ホエールズ」編集部を辞し、牛込さんもベイスターズを退団されたあと、雑誌の取材でお目にかかるようになり、やがて「スカパー!MLBライブ」でご一緒するようになって、控室などで伺った貴重なお話は今でも私の財産になっている。
2006年に渡米した際、クーパースタウンでクリート・ボイヤー氏と偶然遭遇した折にも「Mr.Tad Ushigomeと一緒に仕事をしている」と自己紹介すると本当に親切にしていただき、クーパースタウンでも数日後のヤンキースタジアムでのオールドタイマーズデイでもさまざまな話を伺うことができた。帰国後そのことを牛込さんに話すと、「そうか、ボイヤーは元気そうだったか」と大変喜ばれていた。
スカパー!で担当した最後の中継は2008年のワールドシリーズだったが、光栄なことに牛込さんとのダブル解説だった。
昨年の年賀状に「もう高齢なので来年からは年始のあいさつは遠慮させてもらいたい」と書かれていたので、一度は電話でも差し上げなければと思っているうちに、今回の訃報に接することになってしまった。
一度きちんと御礼を申し上げたかったが、もはやそれも叶わなくなってしまった。
いまごろは、ボイヤーや「素浪人」ことマイク・クレスニックと天国で再会を喜び合っていることだろう。
牛込さん、本当にありがとうございました。
ボイヤーが鬼籍に入っていたのは初めて知りましたが、まあ現役は40年前ですから、早ければおかしくない所か。