「東洋経済」の高校野球特集で、高野連会長インタビューに次いで興味深かったのはトップの「高校野球が愛される絶妙な仕掛けがあった」だ。経済的、興行的側面から高校野球を評価している。

関西人にはおなじみの関西大学宮本勝浩教授によると、甲子園の経済効果は343億円、単純比較はできないが、楽天優勝時の230億円を大きく上回る。春は少し小さいだろうが、こんな大イベントが年に2回も行われているのだ。

なぜ高校野球がここまで熱狂的に受け入れられるかというと、慶應義塾大の中島隆信教授は
「野球の持つ非効率さをコンテンツとして磨き上げた結果だ」
という。
野球は9人でするスポーツだが、多くの有力高校では100人を超す部員を抱え、彼らに膨大な練習を課して(一説には4000時間、高校3年間の授業時間は3000時間)鍛え上げる。
その挙句に負ければ終わりのトーナメントの試合にすべてを賭けるのだ。
こうした非効率な“投資”は“教育”という美名のもとに正当化される。
無駄と思われる努力をすることが、将来的に必ず役立つ、膨大な練習が人間形成に必ず役立つという理屈だ。

そして試合は、過酷な炎天下の下行われる。ベンチ入りはわずか18人、負ければ終わり。この究極の環境が「甲子園」の価値を高める。過酷な環境によって、十分に力を発揮できない選手も出るから、不確実性は高まる。これも「高校野球の味」になる。

中島教授は
「ふつうは選手が力を発揮しやすいように舞台を整えるものだが、高校野球は全く逆だ」という。あたかも修行僧のような「難行苦行」が高校野球人気の核となっているのだ。

この指摘は鋭い。
高校野球という国民的なスポーツは、また十代の若者を「甲子園」という名の炉にくべて、盛大な炎を立ち昇らせることで成り立っているのだ。
炉の温度が高ければ高いほど、炎は強くなり、人々は喜ぶわけだ。

いわば「甲子園至上主義」とでもいえようか。球数制限や過密日程緩和の話が出ると「それでは甲子園の良さが消えてしまう」というファンや指導者がいる。
つまり、「甲子園」の祭典を盛り上げるためには、高校球児の野球生命を奪うことも厭わないといっているわけだ。
PL学園の大エースだった西田真二さんに甲子園優勝時のことを聞いたことがあるが、「頭がぼーっとして何も覚えていない」と言っていた。まさに炉にくべられた薪のようなものだったのだろう。

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これは、スケールは小さいが、中学、高校の体育祭でのピラミッドと同質のものだといえよう。
子供たちが怪我をするリスクが高いのに、学校や父兄の中にはこれを熱狂的に支持する人がいる。彼らは、練習を積み重ね、努力をしてピラミッドを作り上げる「感動」を口にする。そしてそれは教育としても素晴らしいという。

今の日本は「感動」があたかも通貨のようになっている。テレビも映画も「感動」一色。いい話づくりに躍起となっている。
本当に感動する話など、そうそう転がっていないと思うが、テレビは、毎週確実に「感動」を提供するため様々な工夫を凝らしている。

そういう背景を考えれば、確実に「大きな感動」を提供してくれる甲子園は、得難いコンテンツなのだろう。熱闘甲子園のように「感動製造工場」みたいな番組さえできている。

こうした「感動一色社会」にあっては、「高校生が野球の力試しをする」というごく普通の目的は、吹っ飛んでしまう。「力を発揮しやすいような環境を作る」ことよりも「より多くの感動を得るために、高校球児を過酷な状況に追い込む」ことが優先されるのだ。
この国は狂っていると思う。


1962年足立光宏、全登板成績【1試合17奪三振を記録、8勝を上げる】

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