昨日は男子100mの予選だけ見て寝ようと思った。ケンブリッジ飛鳥と桐生祥秀と山縣亮太の走りを見ようと思ったのだ。

ケンブリッジは10秒13という好タイムで準決勝に残った。
桐生はウサイン・ボルトと同じ組だったが、わずかの差で4位となり、タイム的にも平凡だったので予選敗退。
山縣亮太はダッシュよく2位に入り、準決勝に進出。

日本のテレビは、まだ当落が決まらない桐生にインタビューをした。おそらくは勝手がわからない桐生がインタビュー位置に指定されているゾーンに入ってきたのだろう。
しかし彼は口を開くどころではなかったはずだ。まだ結果が出ていない。準決勝に残るかどうかの瀬戸際だったのだから。
インタビューに上の空で答えている途中で予選敗退を知って「東京オリンピックで頑張りたい」という言葉を絞り出すように言った。
作り笑顔が痛々しかった。20歳の若いアスリートに対して、テレビは本当に残酷なことをしたと思う。

確かに、私たちは偉業を残したアスリート、敗退したアスリートの声を聴きたいと思う。
しかし、それは別にレースの直後でなくてもいい。試合の余韻が残っている方がいいにしても、心の整理をつけてからでも全くかまわないはずだ。
まだ息も荒い選手が、声も絶え絶えに話すのを聞きたいと思うのは、悪趣味だ。

大相撲では荒い息の力士にマイクを受けるのが慣例になっているが、あれはそういうスタイルだから力士も心の準備ができている。
そうではないアマチュアのアスリートに、いきなりマイクを向けるのは不躾だ。

テレビ的には、選手たちの肉声、リアルな声を届けたいという思いがあるのだろう。そのほうが感動が高まる、視聴者は鮮度の高い声を求めていると思っているのだろう。
しかしそれは大きな間違いだと思う。

日本のファンは、自国のアスリートを応援している。まるで親戚や友人を応援するような切実さでテレビを見ている。試合を終わった直後の選手に対して、そういうファンが抱くのはまずは、ねぎらいの気持ちのはずだ。
まだ息も荒い選手、勝ったにせよ負けたにせよ気持ちの整理のついていない選手にマイクを向けて「さあしゃべれ」とやってほしいと思っているファンはそれほどいないと思う。

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そもそも、選手のインタビューは、スポーツ中継の必需品ではない。スポーツ中継にほしいのは、あくまで「スポーツをしている映像」であり、それに付随する「情報」であって、選手の声はそれを補完するものに過ぎない。

野球でもオールスター戦などでは、試合の最中に選手を呼び出して話を聞いたりするが、試合、プレーへの興趣がそがれること甚だしい。

それに、選手が試合中や直後に話す言葉など、知れているのだ。勝てば「うれしい」といい、負ければ「悲しい」という。この喜びを誰に、と聞かれれば「親や恩師、子供に」と言うのだ。「隣の家で飼っている2歳半のトイプードルのアランちゃんに」とか「タイのプーケット島の漁師のボンクンさんに」という選手はいない。
ろくな質問もしないし、ろくな答えも返ってこない。あればいいが、なくてもよいものだ。

テレビは「スポーツシーンを流すだけでは、ファンは満足しない」と勝手に思っている。有名選手の本音やプライベートなどをつけないとスポーツ番組は成立しないと思っている。
それは(主として)民放のテレビ制作者たちが、ちっともスポーツが好きではないからだ。あるいはレベルが低すぎて「スポーツの面白さが理解できない」からだ。
今どきの地上波民放のスポーツ中継は「バカにスポーツ番組を作らせたらこうなる」の典型になっている。

桐生の痛々しいインタビューを見るにつけ、テレビはどうなってしまったのかと思う。
この日の中継アナは番組表を見るとTBSの土井敏之になっているが、本当か。ニュース番組などとは違うDJ風のテンションの高い声で、終始上滑りな実況を続けた。耳障りで仕方がなかった。もっと小ましなアナウンサーだと思ったが。
そこには「スポーツ番組の主役は俺だ、テレビだ」という民放地上波の浅はかな勘違いがありありとうかがえた。

昨日の男子100mは、民放ではなくNHKの制作だったようだが、いずれにせよ、スポーツ放送の劣化はとめどなく進行していくようだ。



nabibu-Yakyu01
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