驚いたのは体のサイズ。5' 11" 、175 lbはイチローとぴったり同じだ。でも彼には「小兵」という印象はない。約40年の間にMLBはかくも巨大化したのだ。


野村克也、長嶋茂雄より1学年上、ハンク・アーロンと同年生まれだが日本的に言えば一学年下。
三宅 秀史、ルイス・アパリシオ 、小山正明、ロジャー・マリス、通算安打数ですぐ上にいるアル・ケーラインらが同い年。バド・セリグも。
プエルトリコ出身のMLB選手は10人目になる。

キャリアSTATS

3000Clemente


ジャッキー・ロビンソンとは15歳違う。黒人としては第2世代だ。
しかし彼を獲得したドジャースは、黒人選手の比率が増大しすぎるのを恐れてMLBに昇格させなかった。

2年目にパイレーツに移籍。ほぼ野村克也とキャリアが重なっている。
当時は守備のセンスのいい軽量の外野手という評判だったようだ。
デビュー年の1955年の捕殺数18は、外野手ではジャイアンツのウィリー・メイズに次ぐ2位。翌年も2位タイ。主として右翼だったが肩が素晴らしかった。

しかし20代前半は故障もあって伸び悩む。本格的に活躍しだしたのは1960年からだ。
この年のパイレーツは、主軸がディック・スチュアートとマゼロスキー、エースがバーン・ロウ。ワールド・チャンピオンになっている。
1年後輩のマゼロスキーはずっとチームメイトだった。

アベレージヒッターだが、次第にパワーをつけ中軸を打つ。しかし彼の売りは、外野守備だった。
外野手の捕殺数266は、20世紀生まれの選手ではクライド・ミランに次いで2位。61年から12年連続でゴールドグラブを受賞している。これは外野手最多。

69年にはピート・ローズと激しい首位打者争いを演じ、3厘差で負けている。

70年代に入るとウィリー・スタージェル、マッティ・アルー、アル・オリバーらと強力打線を組んだ。

1972年9月30日のメッツ戦でジョン・マトラックから左翼に二塁打を打って3000本安打を達成(カウント3-0)。
10月3日のシーズン最終戦は守備固めに入っただけ。きりのよい数字でシーズンを終えた。

しかしこの年の大晦日、ニカラグア震災の救援物資を積み込んだ輸送機に同乗したクレメンテは飛行機の墜落によって帰らぬ人になった。遺体は見つかっていない。
よく「母国の震災を救援しようとして死んだ」と勘違いされるが、そうではなかった。

私がMLBを見始めたのは1977年だが、このときにはウィリー・スタージェルがまだ現役で「クレメンテの遺志を継ぐチームリーダー」と言われていた。

クレメンテは最終の72年には規定打席に達していない。すでにフル出場は無理だったようだが、アベレージは依然高い。永らえていれば、あと3年、300本くらいは追加できたのではないか。


nabibu-Yakyu01
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