「高校野球の経済学」は、高校野球を4つの要件に分けて説明している。

この本を元に作った図。

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競技性とは「勝つことを目的とする」スポーツであること。
教育性とは「高校の部活動を基本とする教育の一部」であること。
文化性とは「ムラ社会的性質を有し、都道府県を巻き込む文化活動」であること。
非商業性とは「報酬を受け取らないアマチュアリズムに徹した活動」であること。

高野連の旗は「F」をモチーフにしている。これは、フェアプレー、フレンドシップ、ファイティングスピリッツのFである。
筆者は、フェアプレーは「文化性」、フレンドシップは「教育性」、ファイティングスピリッツは「競技性」を表していると説明している。

この中で「スポーツ」とは直接関係のない概念が「文化性」だ。スポーツは、結果として「文化」で語られることがあるが、文化であることがスポーツの制度や運用に影響を与えることは普通考えられない。

しかし「高校野球」は、「甲子園」という無形文化財というべき、極めて個性の強い「文化的イベント」を真ん中に据えているために、身動きがとれないのだ。

たとえば、投手の酷使の問題。
短期的な競技性を考えれば、投手に連投を強いるのは妥当なことだが、怪我、故障のリスクを考えれば、妥当とは言えない。また教育性を考えれば、選手の健康を損ないかねない酷使は避けられてしかるべきである。
甲子園の日程も、間隔を開けるなり、季節を変えるなりして、選手の健康面に配慮すべきだが、甲子園は単なる「競技会」ではなく、日本国中が注目する「文化的イベント」であり、酷暑の時期にやることも、連投を強いることも、その結果として選手に大きな負担を与えることも「文化的な意義がある」ために、変更することができない。

涼しい季節に1週間おきに甲子園で試合が行われ、万全の体調で投手がマウンドに上がったとすれば、それはもう「甲子園ではない」のであり、開催する意味がなくなってしまうのだ。
極論すれば「選手が苦しまなければ甲子園ではない」のだ。

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こういう文化イベント(奇祭)を、「教育」の名の下に高野連が主催し、日本を代表する新聞社や、テレビ局が熱狂的に報道している。これは狂気ではないかと思われる。
高野連、そして多くの高校野球指導者が「甲子園の伝統」を盾に現状を変えようとしないのは、力のあるメディアが全面的にこれを肯定しているからだ。その後ろに「プロ野球は見ないが高校野球なら見る」と言う熱心なファンがいるからだ。極論すれば日本中が応援している。
この部分を変えることは容易ではない。

「部活」「教育」としての高校野球の健全な発展を考えれば、甲子園の過密な日程は改められてしかるべきだ。
しかし「文化」「伝統芸能」である「甲子園」は、何一つ改めることなく次代に伝えるべきだ。

「高校野球」か?「甲子園」か?

この対立の図式が、高校野球だけでなく、大学野球、プロ野球も含めた日本の野球をいびつなものにしている。「野球全体の阻害要因」になっている。

高校野球を「高校生に快適な大会」にしてしまえば、人気は急落するだろう。注目度も落ちて、他の競技の全国大会であるインターハイと同程度の注目度になってしまうかも知れない。
それによって、野球の人気はさらに落ち込み、野球離れに拍車がかかるかも知れない。
しかし、この壁を乗り越えないと、野球の「まともなスポーツ」としての再生はないのではないかと考える。

読者各位はどう思われるか。



1966年小川健太郎、全登板成績【エースとしての働き】



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