ひとことで言えば“スター”。華やかなプレーが強く印象に残っている。

八木一郎さんが「日本でいえば掛布雅之、右投げ左打ちの三塁手、勝負強いチームリーダー」と紹介していたのを思い出す。
掛布より2歳上の1953年生まれ。同年生まれにジム・ライス、キース・ヘルナンデス、フランク・タナナ、ブルース・スーター、ジョン・キャンデラリア、ウォーレン・クロマティ、日本ではいわゆる花の二八だが、野球では落合博満、真弓明信、梨田昌孝。

1971年のドラフト2位でカンザスシティ・ロイヤルズに入団。同期にはマイク・シュミット、ジム・ライス、フランク・タナナ、ロン・ギドリー。

キャリアSTATS

G-Brett


ドラフト直後に入団し、3年間マイナーでプレーし、1973年8月2日のホワイトソックス戦でメジャーデビュー。8番三塁で先発し、4回に左前打、投手はスタン・バーンセン。打線は1番遊撃小兵のフレッド・パテック、3番中堅エイモス・オーティス、5番DHで広島で活躍したゲール・ホプキンス、6番左翼でルー・ピネラ。

翌1974年からレギュラーとなり、新人王投票で3位、1位はマイク・ハーグレイブ、2位はバッキー・デント。

1976年首位打者。ロイヤルズの若大将として絶大な人気を誇る。中距離打者だが勝負強く、いいところで打った。ゴールドグラブは三塁では取っていないが、守備も華麗だった。このあたりも掛布雅之と通じるところがある。

痔の持病があり、しばし休場。またアグレッシブなプレーのため、故障も多かったが、ほぼレギュラーとして20年間プレー。

1980年は5月30日まで2割台。故障で1ヶ月休場。6月1日に復帰してから打ちまくり、8月17日には4割に乗せる。9月4日を最後に4割を切ったが、.390の高打率で首位打者に。6月打率は.472、7月.494、8月.430というものすごさ。
わずか117試合の出場だったが、チームが14ゲーム差をつけて優勝したこともあり、MVPに選ばれた。
またこの年から制定されたシルバー・スラッガー賞にも選ばれた。
ただこの賞を三塁手としては2回しか取っていないのは、少し遅れてウェード・ボッグスが登場したからだ。

1983年には松ヤニ事件を起こす(パインタール事件)。これはビリー・マーチンの策略だろう。

1985年、30本塁打112打点に打率2位の.335でチーム優勝に貢献。
1987年には一塁にコンバートされる。この年シルバー・スラッガー賞。
1990年にはリッキー・ヘンダーソン、ラファエル・パルメイロと競り合って3度目の首位打者。70年代、80年代、90年代に1度ずつ取ったことになる。

3000本安打は1992年9月30日のカリフォルニア・エンゼルス戦。3番DHで出場してフリオ・バレーラから打つ。

年俸は92年の310万ドルが最高。
ロイヤルズ史上最高の選手として1993年に引退。

1999年資格1年目で98.2%の高率で殿堂入りした。



1966年小川健太郎、全登板成績【エースとしての働き】



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