1962年生まれと言えば、元西武捕手、監督の伊東勤、「マネーボール」のオークランド・アスレチックス、ビリー・ビーンGMと同い年である。野球をするより、野球のマネージメントをする年代だ。
2011年は全休していたジェイミー・モイヤーが、コロラド・ロッキーズ=COLのスプリング・トレーニングに招待参加し、見事に開幕ロースター入りを決めた。
お情けでも、話題作りでもない。ちゃんと数字を残している。

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3月28日は4回7安打3自責点と打ち込まれたが、彼の課題である被本塁打はなし。総合点でのクリアだろう。
長いキャリアSTATSをご覧いただこう。

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モイヤーは大学時代にドラフトにかかってプロ入りしている。22歳だった。シカゴ・カブスの6順目指名だから、それほど注目されていたわけではない。同期にはマーク・マグゥアイア、グレッグ・マダックス、トム・グラヴィンらがいるが、いずれも年下である。

同年生まれのロジャー・クレメンスは83年、ビリー・ビーンは84年のドラフトでの入団である。

成績はそれほど芳しいものではない。マイナーではまずまずの成績を残していたが、MLB昇格後は四球、被安打が多く、不安定だった。見上げるような大男が多い投手の中で、モイヤーは小柄の部類に属していた。ただ左で、向こう意気が強かったこと、そして故障が少なかったことで先発陣の最後の方に名を連ねていた。

しかし88年に右ひじを故障、5年近い低迷期があった。この時期には引退、コーチ就任の要請もあったが、これを拒否。93年にボルチモア・オリオールズで返り咲く。すでに30歳になっていた。

以後のモイヤーも、エースという活躍ではなかったが、常に計算のできる投手ではあり続けた。ただ、球威は衰え、速球は145km/hに至らなかった。被本塁打が急増した。

1996年シーズン途中、シアトル・マリナーズ=SEAに移籍。広いキング・ドーム、セーフコ・フィールド(1999年開場)を本拠にしたことにより、成績が安定。制球力が飛躍的に向上したこともあり、ランディ・ジョンソンなきあとのSEAでエースとして君臨した。

我々日本人にとっては、2001年イチローがデビューした年の、頼りがいのあるエースとしてのモイヤーが記憶に強い。この年、モイヤーはすでに38歳だったのだ。

SEAでの10年半で、145勝87敗。7シーズン200回以上を投げている。2003年には21勝、唯一のオールスター出場を果たしている。SEA史上屈指の投手だったといえよう。

2006年8月、SEAからフィラデルフィア・フィリーズ=PHIにトレードされたときには、すでに44歳になっていたが、以後も先発ローテーションの一角を担い続けた。安打や本塁打を打たれはしたが、何とかリードをしたまま救援投手につなぐことができた。「試合を作る」ことができる投手だったのだ。

年代別の成績。

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30台で一人前の投手になり、ゆるやかに下降線を描きながら40代を乗り切ろうとしている。こんな投手は他にいない。

2010年12月1日にトミー・ジョン手術を受け、2011年を全休したが、2012年3月にCOLとマイナー契約、何事もなかったかのように先発ローテーションに滑り込んだ。

たった一つだがMLB記録を持っている。511被本塁打である。

1986年6月16日、CHCからモイヤーがメジャーデビューした日の対戦相手はPHI。4番にはマイク・シュミットが座っていた。投手はスティーブ・カールトン。CHCの1番はデイビー・ロープス、3番はライン・サンドバーグ、5番にゲイリー・マシューズ。すでに歴史としか言いようのない選手たちと野球をしていたアラフィフが、まだMLBのマウンドで投げようとしている。
この姿をぜひ、TVで見たいと思う。

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