強打の捕手。レッズのフランチャイズ・プレイヤー。
1947年12月生まれ、同い年にカールトン・フィスク、アの名捕手も同い年だった。ホセ・クルーズ、ダレル・エバンス、ケン・シングルトン、エイモス・オーティス、日本では谷沢健一、江本孟紀、福本豊、平松政次、藤田平、松岡弘、鈴木啓示(今日誕生日)。
1965年第1回ドラフトで2巡目、全体36番目でレッズに。同期にリック・マンデー、ジョー・コールマンなど。
キャリアSTATS

マイナーでは長打が目立った。3年目にMLBに昇格。
初出場は1967年8月28日のフィラデルフィア・フィリーズ戦、7番捕手で先発。初安打は8月30日の同じカード。7番捕手で先発し、7回に左前打、投手はクリス・ショート。
レッズは3番左翼でピート・ローズ、4番一塁でリー・メイ、5番三塁でトニー・ぺレス。
翌年には正捕手のジョニー・エドワーズを放出して正捕手に。以後、13年にわたってビッグレッド・マシンの本塁を守った。1981年以降、三塁、一塁も守ったが2152試合のうち1742試合は捕手だった。
1968年はジェリー・クーズマンと接戦になったが新人王を獲得。ナでは初の捕手の受賞。
翌69年には26本塁打、70年は40本で本塁打王、打点王。MVPも獲得。あれよあれよという間にスターダムにのし上がった。
ベンチは捕手の守備を変えた選手としても知られる。これまでの分厚いアンパン型のミットではなく、当時流行したファーストミット・タイプの薄くて軽いミットを使い、片手捕りから二塁に素早く送球。
またパスボールが非常に少なかった。1968年には18個でリーグ最多だったが、動きを磨き、1975年には121試合に出場してパスボール0を記録した。
72年にも二冠王に輝きMVP、74年にも打点王。
勝負強く1976年の地区シリーズのフィリーズ戦では第3戦でサヨナラ本塁打。
1978年の日米野球、本塁打を打って帰ってくると本塁前でお辞儀をしていたのを覚えている。
当時、野村克也に比べれは大した数字ではないな、と思ったが、今見ると見事な記録。
2000本安打は1983年5月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦、4番三塁で出場し、7回にスティーブ・カールトンから左前打。
1983年、引退を表明するとボーウィ・キューンコミッショナーが、やはりこの年引退を表明したカール・ヤストレムスキーとともに特別枠を設け、オールスターに出場。ベンチは8回に代打で出場し、遊飛だった。
35歳の引退は、早いという感じもするがきれいな引き際だった。
1989年、資格取得1年目で96.4%の高率で殿堂入り。
1976年柳田豊、全登板成績【援護あったら2ケタ勝利も】
私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中


1965年第1回ドラフトで2巡目、全体36番目でレッズに。同期にリック・マンデー、ジョー・コールマンなど。
キャリアSTATS

マイナーでは長打が目立った。3年目にMLBに昇格。
初出場は1967年8月28日のフィラデルフィア・フィリーズ戦、7番捕手で先発。初安打は8月30日の同じカード。7番捕手で先発し、7回に左前打、投手はクリス・ショート。
レッズは3番左翼でピート・ローズ、4番一塁でリー・メイ、5番三塁でトニー・ぺレス。
翌年には正捕手のジョニー・エドワーズを放出して正捕手に。以後、13年にわたってビッグレッド・マシンの本塁を守った。1981年以降、三塁、一塁も守ったが2152試合のうち1742試合は捕手だった。
1968年はジェリー・クーズマンと接戦になったが新人王を獲得。ナでは初の捕手の受賞。
翌69年には26本塁打、70年は40本で本塁打王、打点王。MVPも獲得。あれよあれよという間にスターダムにのし上がった。
ベンチは捕手の守備を変えた選手としても知られる。これまでの分厚いアンパン型のミットではなく、当時流行したファーストミット・タイプの薄くて軽いミットを使い、片手捕りから二塁に素早く送球。
またパスボールが非常に少なかった。1968年には18個でリーグ最多だったが、動きを磨き、1975年には121試合に出場してパスボール0を記録した。
72年にも二冠王に輝きMVP、74年にも打点王。
勝負強く1976年の地区シリーズのフィリーズ戦では第3戦でサヨナラ本塁打。
1978年の日米野球、本塁打を打って帰ってくると本塁前でお辞儀をしていたのを覚えている。
当時、野村克也に比べれは大した数字ではないな、と思ったが、今見ると見事な記録。
2000本安打は1983年5月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦、4番三塁で出場し、7回にスティーブ・カールトンから左前打。
1983年、引退を表明するとボーウィ・キューンコミッショナーが、やはりこの年引退を表明したカール・ヤストレムスキーとともに特別枠を設け、オールスターに出場。ベンチは8回に代打で出場し、遊飛だった。
35歳の引退は、早いという感じもするがきれいな引き際だった。
1989年、資格取得1年目で96.4%の高率で殿堂入り。
1976年柳田豊、全登板成績【援護あったら2ケタ勝利も】

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!
↓
好評発売中
好機については、現代ではチームは3人のキャッチャーを置いている。しかもキャッチャーを目指す若手は少ないので入団の好機に恵まれている。
関与については、キャッチャーはどのポジションよりもゲームに関与出来る。ピッチャーすら凌駕する。
それらが理由だと。だから、他のポジションでプレーすると、あまりゲームに関与していない。どころか、まるでプレーしていないように感じる。そのように言っていました。
35歳での引退は、晩年肘を痛めキャッチャーは無理だと首脳陣に判断されて、サードやファーストを守らされたのにも原因があるかもと思いました。(同い年の2人のキャッチャー、フィスクとブーンもキャッチャーのままで40歳過ぎまでプレーしてますし)