強かった時代の阪急ブレーブスの2番打者。

大熊忠義本塁打大全


1943年9月生まれ。千田啓介、大石弥太郎、MLBではジョー・モーガン、リー・メイが同い年。

浪商高から近畿大を中退して1964年阪急へ。

キャリアSTATS

T-Okuma


当初は三塁手。初出場は1964年5月31日、西宮球場の近鉄戦、三塁の守備固めで出場。初安打は同年8月29日の近鉄戦4回表に三平晴樹の代打で長田裕之から二塁打。
2年目は代打のみ。3年目も45試合の出場にとどまったが4年目の67年に外野に転向、68年には一番打者としてフル出場し、打撃8位に入る。

70年、福本豊が1番打者に。2番は当初阪本敏三や八田正だった。大熊は6番を打つことが多かった。71年には3割をマーク。
72年に福本との1,2番コンビが完成。
長打もあったが打撃には波があった。しかし、ファウルうちがうまく、右に流す打撃が得意。世界の盗塁王福本を存分に活かした。

福本が出塁すると、大熊はうっそりと打席に立ち、しつこくファウルを打ちながら投手の一塁への注意力を殺いでいく。福本が盗塁すると、すかさず右打ちで三塁へ進めた。
全盛期の阪急にあって、誠に目立たないながら、西本監督、上田監督ともに大熊を外さなかったのは、それだけ重要な役割を果たしたのだ。

のちに福本は同じ俊足強打の蓑田浩二と1,2番を組むが、いやらしさにおいては福本、大熊コンビにはかなわないと思った。

1000本安打は77年10月7日、西宮球場の近鉄戦、二番左翼で先発し、5回裏に元同僚の米田哲也から。この年のシーズン最終戦だった。

引退後はコーチ、解説者。
もう少し指導者として活躍するかなと思ったが。解説者としてはぼそぼそと素朴な声でしゃべっている。

私の祖父母は近大野球部の近所でパン屋、駄菓子屋をやっており、野球部員とは親戚のような付き合いをしていた。
母や叔母は「お前は大熊さんにお風呂屋さんに連れて行ってもらったことがある」というが、当時4歳。全く覚えていない。山下律夫、有藤通世、藤原満をかろうじて覚えているだけである。



1976年村上雅則、全登板成績【復活への兆し】



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