国と国の障壁に阻まれてデビューが遅れたスラッガー。




1963年11月生まれ、同年生まれに伊東昭光 、工藤公康、槙原寛己、金村義明、石井宏、鈴木貴久、音重鎮MLBではフレッド・マグリフ、エドガー・マルチネス、ポール・オニール、ボビー・ボニーヤ、マーク・マグワイア、ランディ・ジョンソン、デビッド・ウェルズ、ボビー・シグペン。

台湾、華興高時代に日本行きを志すが、法によって20歳まで出国できず。
キャリアSTATS

Y-Taiho


20歳で出国し、21歳で名古屋商科大に入学、リーグ記録の24本塁打をマークするが、さらに1年中日の職員として過ごし、25歳でドラフト2位で中日入団。日本行きを思い立ってから7年が経過していた。

初出場、初安打は1989年4月9日、ナゴヤ球場の横浜戦。5番左翼で先発し、7回に斎藤明夫から初安打。
ごつい体。一本足打法でボールをバットに載せてスタンドに叩き込んだ。体を傾がせ、バットを投手に向けて足を上げるさまは、大先輩の王貞治にも似ていた。
94年には本塁打王、打点王の2冠。
ただ体が硬く、変化球に弱い印象があった。また調子の波も激しい印象があった。成績を積み上げられなかったのは、こういうところに原因があったのかもしれない。
1998年に矢野輝弘とともに、関川浩一、久慈照嘉とのトレードで阪神に。
しかし野村監督とはあまりそりが合わず、年俸でもめて自由契約となり中日に復帰。
阪神時代は、やや体が小さくなり、野村監督の指導で足も上げなくなった。魅力が半減した印象だった。
中日復帰時点で38歳、最後の2年は代打暮らしだった。

1000本安打は阪神時代の2000年4月8日、広島市民球場の広島戦、5番一塁で先発。4回表に紀藤真琴から右前打。その前の打席では同じ紀藤から250本塁打も記録した。
引退後は指導者、飲食店経営者となったが2015年に早すぎる死を迎えた。球界には大きなショックだった。

少なくとも20代前半でデビューしていたら、そのキャリアはかなり変わっていたのではないか。


1971年村田兆治、全登板成績【初の2ケタ勝利&オールスター出場】


nabibu-Yakyu01
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